孫奮(そんふん)の没年について

こちらの謎は孫奮(そんふん)の没年に関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

孫奮は呉(ご)の孫権(そんけん)の五男ですが、没年はイマイチはっきりしません。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫奮伝〈そんふんでん〉)には以下のような記事があります。

「[呉の]建衡(けんこう)二(270)年、孫皓(そんこう。孫晧)左夫人(さふじん)王氏(おうし)卒。皓(孫晧)哀念過甚、朝夕哭臨、数月不出、由是民間或謂皓(孫晧)死、訛言奮(孫奮)與上虞侯(じょうぐこう)奉(ほう。孫奉〈そんほう〉)当有立者」

「奮(孫奮)母仲姫(ちゅうき)墓在豫章(よしょう)、豫章太守(よしょうたいしゅ)張俊(ちょうしゅん)疑其或然、掃除墳塋」

「皓(孫晧)聞之、車裂俊(張俊)、夷三族、誅奮(孫奮)及其五子、国除」
『三国志』(呉書・孫奮伝)

呉の建衡2(270)年、孫晧の左夫人だった王氏が死去する。孫晧は悲しみに耐えられず、数か月間も人前に姿を見せなかった。そのため呉の人々は「孫晧が死んだのだ」とか「[章安侯(しょうあんこう)の]孫奮か上虞侯の孫奉が帝位に即くだろう」などとうわさした。

孫奮の母である仲氏の墓が豫章にあったが、豫章太守の張俊はこのうわさを信じ、仲氏の墓を掃除させた。

この話を聞いた孫晧は激怒し、張俊を車裂きにしたうえ一族をも皆殺しにした。さらに孫奮と5人の息子たちを誅殺し、封国を廃した。

一方で『三国志』(呉書・孫晧伝)には、鳳皇(ほうおう。鳳凰)3(274)年の出来事として以下のような記事があります。

「[呉の鳳皇(鳳凰)]三(274)年、会稽(かいけい)妖言章安侯奮(孫奮)当為天子(てんし)」

「臨海太守(りんかいたいしゅ)奚熙(けいき)與会稽太守郭誕(かくたん)書、非論国政。誕(郭誕)但白熙(奚熙)書、不白妖言、送付建安(けんあん)作船」
『三国志』(呉書・孫晧伝)

会稽郡で「章安侯の孫奮が天子になるだろう」という妖言が広まったころ、臨海太守の奚熙は会稽太守の郭誕に書簡を送り、国政を非難していた。

郭誕は孫晧に、奚熙の(国政を非難した)書簡のことは上言したものの、(孫奮が天子になるだろうという)妖言については上言しなかったため、建安へ送られ船を造る労役に充てられた。

管理人「かぶらがわ」より

「孫奮伝」の記事を見ると、孫奮は建衡2(270)年に5人の息子たちとともに誅殺されたと受け取れますが、「孫晧伝」ではその4年後にあたる鳳皇(鳳凰)3(274)年にも孫奮のうわさ話が出ており、何だか訳のわからないことになっています。

この件は、どちらかの記事に誤りがないとつじつまが合いません。本当のところはどうなのでしょう?

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