呉(ご)の孫晧(そんこう)の没年について

こちらの謎は呉の孫晧の没年に関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合うなかで、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

孫晧は呉の天紀(てんき)4(280)年に晋軍(しんぐん)の総攻撃を受けて降伏し、のちに晋都の洛陽(らくよう)へ移りました。そしてその地で亡くなったのですが、没年はイマイチはっきりしません。

「[晋の太康(たいこう)]五(284)年、皓(こう。孫晧〈そんこう〉)死于洛陽」
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝〈そんこうでん〉)

「呉録曰、皓(孫晧)以[晋の太康]四(283)年十二月死、時年四十二、葬河南県(かなんけん)界」
『三国志』(呉書・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』

正史『三国志』の本文のほうが晋の太康5(284)年、その裴松之注に引く『呉録』のほうが、その前年にあたる晋の太康4(283)年12月としていますね。

管理人「かぶらがわ」より

孫晧だけでなく、正史『三国志』で生年や没年に触れられている人物の中には、その記述にブレがあるケースはいくつか見られます。

できたらはっきりさせたいというケースについては、このカテゴリーで取り上げていきたいと思います。

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