劉焉(りゅうえん)の跡継ぎについて

こちらの謎は劉焉(りゅうえん)の跡継ぎに関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

劉焉は益州牧(えきしゅうぼく)として中央から半ば独立した勢力を築き、興平(こうへい)元(194)年に亡くなりました。

彼には劉範(りゅうはん)・劉誕(りゅうたん)・劉瑁(りゅうぼう)・劉璋(りゅうしょう)という4人の息子がいましたが、跡を継いだのは末子の劉璋です。

劉範と劉誕のふたりは、興平元(194)年に韓遂(かんすい)と馬騰(ばとう)が反乱を起こした際、劉焉の意向で助力したものの、長平観(ちょうへいかん)で郭汜(かくし)や樊稠(はんちゅう)らと戦って亡くなりました。

なので劉焉が亡くなったとき、劉瑁と劉璋のふたりが成都(せいと)に残っていたわけですが、兄の劉瑁ではなく弟の劉璋が跡を継ぐことになったのかが謎です。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉焉伝〈りゅうえんでん〉)によれば、劉璋は劉範や劉誕とともに献帝(けんてい)に付き従って長安(ちょうあん)にいたこともありますが、劉瑁はずっと劉焉の手元にいたといいます。

また『三国志』(蜀書・劉璋伝〈りゅうしょうでん〉)によれば、建安(けんあん)20(215)年に曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を平定した後、劉璋が曹操のもとへ表敬の使者を遣わした際、劉璋には振威将軍(しんいしょうぐん)、劉瑁には平寇将軍(へいこうしょうぐん)の称号が、それぞれ与えられています。

つまり劉焉が没してから20年あまりを経ても、劉瑁は存命だったわけです。それなら、なぜ跡継ぎは彼ではなく弟の劉璋だったのか――。

とはいえ、同じく『三国志』(蜀書・劉璋伝)には劉瑁が心の病で亡くなったことも書かれていますから、跡を継ぐにはいろいろ問題があったのかもしれませんね。

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