曹羲(そうぎ)

【姓名】 曹羲(そうぎ) 【あざな】 ?

【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)?

【生没】 ?~249年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「曹羲伝」あり。

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曹真の息子

父は曹真だが、母は不詳。曹爽(そうそう)は兄。曹訓(そうくん)・曹則(そうそく)・曹彦(そうげん)・曹皚(そうがい)も兄弟で、おそらくみな弟。

曹羲は231年に曹真が死去した後、ほかの弟たちとともに列侯(れっこう)に封ぜられた。

239年に曹芳(そうほう)が帝位を継ぎ、曹爽が大将軍(だいしょうぐん)として政権を握ると、曹羲も中領軍(ちゅうりょうぐん)に任ぜられた。

その後、249年1月に司馬懿(しばい)がクーデターを発動(正始〈せいし〉の政変)すると、曹爽は迷った末に抵抗しなかった。

結局、曹羲も兄弟ともども大逆不道の罪で処刑され、その三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しになった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、「239年に曹爽が司馬懿を太傅(たいふ)に祭り上げた際、曹芳への上表文を曹羲が作った」ということです。

また本伝によると、「曹羲は、曹爽が腹心の何晏(かあん)らと好き勝手な振る舞いを続けていたことを心配し、たびたび諫めた」とあり、「曹爽が聞き入れようとしなかったため、曹羲は涙を流しながら席を立つこともあった」のだとか。

このほかにも『三国志』(魏書・杜夔伝〈ときでん〉)の裴松之注に、傅玄(ふげん)が馬鈞(ばきん)のことを序したものが載せられていました。

「馬鈞が発石車(はっせきしゃ。石を飛ばす兵器)の改良に取り組んだ際、裴秀(はいしゅう)は難点を指摘したが、馬鈞は言葉に詰まって反論できなかった」

「裴秀がこの話を言い触らすと、傅玄は裴秀に、馬鈞が反論しなかった理由(馬鈞は言葉は不得手だが、実際の器用さとなると得手。裴秀はその逆)を語った」

「傅玄が安郷侯(あんきょうこう。曹羲のこと)に会ったとき、話題が裴秀のことに及び、安郷侯も裴秀の意見に賛同した」

「そこで傅玄が、『言葉でうまく説明できないからといって、実際に試してみなくてよいものでしょうか?』と説くと、安郷侯も納得し、すぐに武安侯(ぶあんこう。曹爽のこと)に馬鈞の改良の件を話した」

「しかし、武安侯がこの件を放置したため、実際に試されることなく終わったのだ」と。

このくだりでは「馬鈞が諸葛亮(しょかつりょう)の考案した連弩(れんど。連発式のいしゆみ)を見て、『巧妙なことは巧妙だが、改良の余地がないわけではない』と言い、『私が作れば5倍の性能を持たせることができる』と称した」ともあり、ライバル意識がうかがえておもしろかったです。

また「発石車には、敵が楼に濡らした牛皮を垂らすと、石が当たってもそのまま落ちてしまい、続けて石を飛ばせないという欠点があった」ともあり――。

「そこで馬鈞はひとつの車輪を作り、大きな石を数十個ぶら下げ、機械装置を使い車輪の回転速度を上げて一定にしたうえ、ぶら下げた石を切り離して飛ばし、敵の城壁に稲妻のように続けて当てようと考えた」のだとか。

で、予備的な実験として「車輪に数十枚の瓦をぶら下げ、数百歩の距離まで飛ばした」という。当時から結構なことをやっていたのだなと、その工夫ぶりに驚かされました。

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