吉川『三国志』の考察 第021話「赤兎馬(せきとば)」

天子(てんし)の廃立を巡る意見の対立から、丁原(ていげん)の急襲を受けて大敗した董卓(とうたく)。洛陽(らくよう)の城外に置いていた軍営も移さざるを得なくなる。

そこで董卓は、まず丁原の養子になっている呂布(りょふ)を取り込もうと考え、彼と同郷の李粛(りしゅく)に、愛馬の赤兎(せきと)とひと囊(ふくろ)の金銀珠玉を託す。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

第021話の展開とポイント

(01)洛陽の城外 董卓の軍営

董卓は丁原の急襲を受けて大敗し、軍営も遠くへ退くことになる。その夜、諸将を呼んで対策を協議していると、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の李粛が一策を献ずる。

李粛は、丁原の養子の呂布とは同郷だと言い、董卓の愛馬「赤兎」とひと囊の金銀珠玉を託してもらえれば、呂布を説得してみせると請け合う。

李粛は許しを得ると翌日の夜、ふたりの従者に赤兎を引かせ、金銀珠玉を携えて密かに呂布の軍営を訪ねた。

(02)洛陽の城外 呂布の軍営

呂布は訪ねてきた旧友の李粛を迎え入れ、話を聞く。そのとき外で馬のいななきが聞こえた。呂布が声だけで名馬だと見抜くと、李粛は「足下(きみ)に進上するためにわざわざ従者に引かせてきたのだ」と答える。

外に出て赤兎を一見した呂布は驚嘆し、陣中に酒宴を設けて李粛の歓待に努めた。すると李粛が、丁原に養われている呂布の将来を案じて見せたうえ、董卓に仕えるべきだと勧める。

呂布が「(実は自分も)日ごろそう考えているが、何しろ丁原と仲が悪いし、それに縁もないので……」と言うと、李粛は携えてきた金銀珠玉を取り出し、これも董卓さまから貴公への礼物だと言い、自分が董卓の使いであることを打ち明けた。

呂布が董卓の志にどう報いたらよいかと悩んでいると、李粛はすり寄って何かささやく。大きくうなずく呂布。

(03)洛陽の城外 丁原の軍営

李粛に煽(あお)られた呂布は幕中へ押し入り、一刀の下に丁原を斬り伏せる。呂布が丁原を斬ったことを大声で叫ぶと、去る者や従う者が出て営内は混乱を極めたが、その半ばはやむなく留まった。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第3回)では、丁原の兵士の大半は逃げ去ったとある。

(04)洛陽の城外 董卓の軍営

李粛が呂布を伴って戻り、事の次第を報告すると董卓は大いに喜ぶ。翌日は特に呂布のために盛宴を開き、董卓自身が出迎えるという歓待ぶりを見せた。

呂布はその日も引き出物として黄金の鎧(よろい)と錦袍(きんぽう)をもらい、有頂天に酔ってしまった。

その後、董卓の威勢は旭日(きょくじつ)のように盛んとなる。董卓は前将軍(ぜんしょうぐん)に就き、弟の董旻(とうびん)を左将軍(さしょうぐん)とし、呂布を騎都尉(きとい)・中郎将(ちゅうろうしょう)に任じて都亭侯(とていこう)に封じた。

董卓の前将軍、董旻の左将軍とも『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・董卓伝)に見えている。だが董旻が左将軍に任ぜられたのは、董卓が太師(たいし)に就任したうえ尚父(しょうほ)と号した初平(しょへい)2(191)年のこと。つまり董卓が前将軍だった同時期(董卓は中平〈ちゅうへい〉4〈187〉年に就任)に董旻が左将軍だったわけではない。

李儒(りじゅ)が先送りになっていた帝の廃立を断行するよう促すと、董卓は省中で大供宴を催すことにし、再び一堂に百官を招いた。

(05)洛陽 省中

宴席の空気を見た董卓が、現皇帝の廃位と陳留王(ちんりゅうおう)の即位推戴(すいたい)を言いだす。宴席は一時にしんとしてしまったが、中軍校尉(ちゅうぐんこうい)の袁紹(えんしょう)が立ち上がり、反対の口火を切る。

袁紹は董卓と罵り合った末、席を蹴って飛び出す。そしてその夜のうちに辞表を出し、遠く冀州(きしゅう)の地へと奔った。

袁紹が宴席から出ていった後、董卓は彼の伯父にあたる太傅(たいふ)の袁隗(えんかい)を引きずり出し、皇帝廃立の賛否を問いただす。

やむなく袁隗が賛同すると、並み居る百官も慴伏(しょうふく。恐れてひれ伏すこと)し、もう誰ひとり反対を叫ぶ者もいなかった。

董卓は侍中(じちゅう)の周毖(しゅうひ)、校尉の伍瓊(ごけい)、議郎(ぎろう)の何顒(かぎょう)の3人に袁紹の追撃を命ずる。

しかし周毖から、彼を一郡の太守(たいしゅ)にしておくほうがよいと言われ、蔡邕(さいよう)も賛意を表すと方針を変え、袁紹を渤海太守(ぼっかいたいしゅ。勃海太守)に任ずることにした。

(06)洛陽 嘉徳殿(かとくでん)

(昭寧〈しょうねい〉元〈189〉年の)9月1日、董卓は帝を嘉徳殿に請じ、文武百官に出仕を厳命した。

殿上で抜剣したうえ股肱(ここう)の李儒に策文を読み上げさせ、現皇帝を弘農王(こうのうおう)に貶(おと)し、何太后(かたいこう)を永安宮(えいあんきゅう)に押し込め、代わって陳留王を皇帝として奉戴(ほうたい)する旨を宣言。

ここで尚書(しょうしょ)を務める丁管(ていかん)という若い純真な宮内官が、董卓を目がけて短剣を突きかける。だが、董卓は驚きながらも身をかわし、丁管は武士らの刃に倒れた。

ここで「新しき皇帝を献帝(けんてい)と申し上げることになった」という記述があった。献帝は諡号(しごう)なので、この書き方には違和感がある。とはいえ、小説などで存命の場面から献帝と書くことは、便宜上、仕方がないとも思う。

献帝の即位の儀式が済むと、董卓は自ら相国(しょうこく)に就任したうえ、楊彪(ようひょう)を司徒(しと)に、黄琬(こうえん)を太尉(たいい)に、荀爽(じゅんそう)を司空(しくう)に、それぞれ任じた。

また韓馥(かんふく)を冀州牧(きしゅうぼく)に、張資(ちょうし。張咨)を南陽太守(なんようたいしゅ)に、という具合に、地方官も朝臣の登用もみな自分の腹心をもって充てた。

董卓は宮中でも沓(くつ)を履き、剣を帯び、肥大した体軀(たいく)を反らせてわが物顔に殿上を横行した。同時に年号も「初平元年」と改められた。

史実では年号が「初平」に改められたのは翌190年のこと。

管理人「かぶらがわ」より

董卓の意向であっさりと少帝(しょうてい)が廃位され、聡明(そうめい)だったという献帝が擁立されました。

呂布が付いた後の董卓は暴走に拍車がかかりますが、袁紹が冀州へ奔るなど、次代への動きも見られますね。

テキストについて

『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
Yahoo!ショッピングで探す 楽天市場で探す Amazonで探す

記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました