吉川『三国志』の考察 第170話 「黄忠の矢(こうちゅうのや)」

荊州(けいしゅう)南部4郡の攻略戦における張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)の活躍の裏で、留守番の関羽(かんう)はもどかしさを感じ、残る長沙(ちょうさ)攻めを任せてほしいと願い出る。

こうして劉備(りゅうび)の許しを得た関羽は張飛と留守を交代し、わずか500騎をひきいて長沙へ急ぐ。だが長沙太守(ちょうさたいしゅ)の韓玄(かんげん)の下には、ひとりの手強い老将がいた。

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第170話の展開とポイント

(01)桂陽(けいよう)

このところ髀肉(ひにく)の嘆に堪えないのは張飛(ちょうひ)だった。

「趙雲(ちょううん)すら桂陽城を奪ってすでに一功を立てたのに、先輩たるそれがしに欠伸(あくび)をさせておく法はありますまい」と、変に諸葛亮(しょかつりょう)に絡み、次の武陵城(ぶりょうじょう)攻略にはぜひ自分をと、暗に望んだ。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると「(この髀肉の嘆は)劉備(りゅうび)の故事に拠る」という。先の第122話(06)を参照。

ここで張飛が憤然と誓紙を書き示すと、劉備は兵3千を授けた。張飛は勇躍し武陵へ馳(は)せ向かう。

(02)武陵

そのころ、城将の鞏志(きょうし)は太守(たいしゅ)の金旋(きんせん)を諫め、劉備軍への抗戦は無意味だと説いていた。怒った金旋は彼の首を斬ろうとしたが、人々が止めるので一命だけは助ける。

金旋は即座に戦備を整え、城外20里(り)に防御の陣を敷く。張飛の戦法はほとんど暴力一方の驀進(ばくしん)だったが、無策な金旋は蹴(け)散らされ敗走。

城中へ逃げてきたところ、楼門の上から鞏志が弓に矢をつがえ、城内の民はみな私の説に同和し、すでに劉備に降参することに決まったと怒鳴る。

同時に放たれた一矢が金旋の面に当たると、鞏志はその首を奪い城門を開き、張飛を迎え入れた。張飛は軍令を掲げ諸民を安んじ、鞏志に書簡を持たせて桂陽にいる劉備のもとへ遣わす。

(03)桂陽

劉備は鞏志を武陵太守に任ずる。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第53回)では、劉備が鞏志に、金旋の職を代行させることにしたとあった。

ここに三郡(零陵〈れいりょう〉・桂陽・武陵)一括の軍事もひとまず完遂したので、荊州(けいしゅう。襄陽〈じょうよう〉?)に留守している関羽(かんう)にもこの由を知らせ、喜びを分けてやった。

するとすぐに関羽から返書が来て、長沙(ちょうさ)の攻略は自分に命じてほしいと訴えてくる。劉備は張飛を荊州へ返し、関羽と交代させた。そして関羽にわずか500騎を貸し、長沙へ向かうことを許す。

関羽が即日、長沙へ向かうべく準備をしていると、諸葛亮が勇将の黄忠(こうちゅう)の名を挙げ注意を促す。さらに3千騎をわが君に仰ぎ、大兵をもって当たらなければ無理であろうとも。

しかし何と思ったか、関羽はこの忠告も耳に聞いただけで、たった500騎を連れその夜のうちに発ってしまった。

諸葛亮は、関羽の心裏には赤壁(せきへき)以来の感傷が残っていると言い、わが君が自ら後詰めし、密かに力を添えるよう勧める。劉備もうなずき、一軍をひきい長沙へ急ぐ。

(04)長沙

劉備が到着したころ、すでに長沙の城市には煙が上がっていた。関羽の手勢は短兵急に外門を破り、すでに城内で市街戦を起こしている。

楊齢(ようれい)は長沙太守の韓玄(かんげん)の股肱(ここう)の臣で、防戦の指揮官を自分から買って出ていた。この日、関羽が楊齢を一撃に屠(ほふ)ってしまったので、長沙の兵は壊乱し城地の第二門へと逃げ込む。

すると城中から、ひとりの老将が奔馬にまたがり、大刀を引っ提げ現れる。これこそ黄忠だった。

関羽は一騎討ちに及び、その手並みに舌を巻く。この様子を眺めていた韓玄は、秘蔵の一臣を討たれてはと心配しだし、退鉦(ひきがね)を打たせる。

関羽が執ように食い下がったため、やむなく黄忠も馬を巡らせ2、30合(ごう)斬り結んだが、隙(すき)を見て堀の橋を渡り越えた。

関羽はなお追って、前よりも近くに黄忠の姿を偃月刀(えんげつとう)の下に見る。けれど、せっかく振りかぶった偃月刀を下さない。黄忠の乗っていた馬が前脚をくじき、彼ともども転んでいたのである。

関羽は「馬を乗り換えて、快く勝負を決せられよ」と言った。しかし、黄忠には乗り換える馬がなかったので、味方の歩兵に交じって城壁の内へ駆け込む。この間に追えば追いつけるものを、関羽は彼方へ引き返してしまう。

井波『三国志演義(4)』(第53回)では、関羽から馬を取り換えてくるよう言われた黄忠は、あわてて蹄(ひづめ)をつかんで馬を起こすと、ひらりと飛び乗って城内に駆け戻ったとある。

韓玄は黄忠を見ると、明日は関羽を橋の辺りまでおびき寄せ、手練の矢をもって射止めるよう励まし、自分の乗馬の葦毛(あしげ)を与えた。

翌日、関羽は500ばかりの手勢を引き連れ城下に迫る。黄忠も陣頭に姿を現し関羽と激闘を交えたが、やがて昨日のように逃げ出す。そして橋の所まで来たところ、振り返って弓の弦を鳴らした。

関羽は身をすぼめたものの、矢は飛んでこない。

橋を越えると、また黄忠は弓を引き絞った。しかし今度も、弦は空鳴りしただけだった。

ところが三度目には矢うなりがして、まさしく一本の矢が飛んできた。矢は関羽の兜(かぶと)の纓(お。紐〈ひも〉)を見事に射止めていた。

関羽は肝を寒くする。黄忠の弓術は、いにしえの養由(ようゆう)が100歩を隔てて柳の葉を射たという、それに勝るものだと思った。

新潮文庫の註解によると「養由は春秋(しゅんじゅう)時代、楚(そ)の弓の名人。養由基(ようゆうき)。100歩離れた柳の葉を射て百発百中であったという」とある。

関羽は、昨日の情けを今日の矢で返したものだと悟り、その日は兵を退げてしまう。一方の黄忠は城中へ戻ると、韓玄の前へ理不尽に引っ立てられていた。

韓玄は今日の戦いぶりを罵る。黄忠は涙ながらに絶叫し、早口に理由を言い開こうとしたが、韓玄は聞かず、即刻刑場へ引き出して斬れと怒鳴った。見かねた諸将が哀訴嘆願を試みるも、韓玄は諫める者は同罪だと言う始末だった。

だが、黄忠の刑が執行される直前、魏延(ぎえん)が周囲の柵(さく)を蹴破って躍り込んでくる。魏延はもと荊州の劉表(りゅうひょう)に仕え、一方の旗頭に推されていたが、荊州の没落後は長沙に身を寄せていたのだった。

魏延が韓玄のもとに身を寄せたことについては、先の第141話(05)を参照。

人々が騒ぐ間に、魏延は刑場から黄忠の身をさらって脱出。それから半刻(15分?)後には、自分の部下をひきいて城中の奥へ駆け入り、韓玄の首を斬り関羽の陣門に下っていた。

関羽は長沙の城頭に勝旗を掲げ、城下一円に軍政の令を敷く。また魏延から、黄忠が私邸に駆け込んでいったと聞き迎えを遣る。

しかし黄忠は再三の使いにも、病に託して出てこなかった。

(05)長沙へ向かう劉備

劉備は関羽の早馬を受け、諸葛亮と馬を並べて長沙の市門へ急いでいた。

その途中、先頭に立てていた青い軍旗の上に、一羽の鴉(カラス)が舞い降りて三度鳴き、北から南の空へと飛び去る。劉備が凶兆ではないかと尋ねると、諸葛亮は衣の下で卜(うらない)を立て、吉兆だと答えた。

「これは長沙の陥落とともに良将を得たことを祝福し、鴉が天告をもたらしてきたものです。必ず何かいいことがありましょう」

(06)長沙

まもなく劉備は、出迎えの関羽から黄忠と魏延のことを聞いた。そこで自ら訪ねると、黄忠もその礼に感じて門を開く。同時に旧主の韓玄の屍(しかばね)を乞い、城東に手厚く葬った。

劉備は即日、法三章を掲げ、広く新領土の民へ布告。「一、不忠不孝の者斬る」「一、盗む者斬る」「一、姦(かん)する(男女間に関係のあることについて、慎みがない行いをする)者斬る」と。また、功ある者を賞し、罪ある者を罰して政(まつりごと)を明らかにした。

そうした繁忙の中、関羽が魏延を伴って現れる。劉備が階上に請じようとすると、突如、諸葛亮が魏延を叱った。

諸葛亮は、魏延に賞を賜うなどもってのほかだと直言。彼の行いは許しがたい不忠不義だとして、これを斬り諸人に公明を示すべきだと述べる。

劉備はなだめ、魏延のため命乞いまでする。これには諸葛亮も沈黙してしまうが、彼の相が心配なのだと言う。後脳部に叛骨(はんこつ)が隆起しているが、これは謀反人によくある相だと。

劉備は、必ず今日のことを忘れず、異心を慎むようにと優しく諭す。魏延はただ感泣にむせていた。

さらに劉備は黄忠から、劉表の甥の劉磐(りゅうはん)が荊州滅亡のあと野に隠れていると聞き、わざわざ捜し求め長沙太守として起用する。

管理人「かぶらがわ」より

劉備軍の武将として新たに黄忠と魏延が加入しました。

関羽と黄忠が互いに情けをかけ合ったという話は正史『三国志』には見えません。とはいえ、仮に創作としてもよくできた話だと思いました。

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吉川『三国志』 (07) 望蜀の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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