馬忠(ばちゅう)に捕らえられた関羽(かんう)は、同じく朱然(しゅぜん)や潘璋(はんしょう)に捕らえられた関平(かんぺい)ともども、孫権(そんけん)の前に引き据えられる。
孫権は降伏を勧めるが、あくまでふたりは拒み、ついに並んで首をはねられた。馬忠は褒美として関羽の愛馬の赤兎馬(せきとば)を与えられたものの、喜びもつかの間、赤兎馬は草を喰(く)わず、水も飲まなくなってしまう。
第238話の展開とポイント
(01)麦城(ばくじょう)の城外 孫権の本営
関平も父の姿を捜し求めているうち、朱然や潘璋の軍勢に生け捕られる。そして荒縄を掛けられ、孫権の陣へ引かれていく間も父の名を叫び、無念無念と繰り返していた。
翌日、孫権は早暁に帳(とばり)を出て、馬忠に関羽を引かせ、すがすがしげに眺めて言う。
「わしはかねてより将軍を慕い、将軍の娘をわが子息へ迎えようとすらしたことがある。なぜ足下(きみ)は、あのときわが懇志を退けられたか?」
関羽は黙然たるのみ。孫権は語を続ける。
「将軍は常に天下無敵の人と思っていたが、なぜ今日わが軍の手に捕らわれたのか? 我に降って呉(ご)に仕えよと、天がご辺(きみ)に諭しているものと思われる」
関羽は静かに眸(ひとみ)を向け、容(かたち)を正す。
「思い上がるをやめよ、碧眼(へきがん)の小児、紫髯(しぜん)の鼠輩(そはい)。まず聞け、真(まこと)の将の言葉を」
そしてこう言った。
「劉皇叔(りゅうこうしゅく。天子〈てんし〉の叔父にあたる劉備〈りゅうび〉)とこの方とは、桃園に義を結んで天下の清掃を志し、以来、百戦の中にも百難の間にも、疑うとか背くなどということは、夢寐(むび)にも知らぬ仲である」
「今日、誤って呉の計に陥ち、たとえ一命を失うとも、九泉(あの世)の下、なお桃園の誓いあり。九天(高い天)の上、なお関羽の霊はある。汝(なんじ)ら呉の逆賊どもを滅ぼさずにおくべきか。降伏せよなどとは笑止笑止。はや首を打て」
それきり口をつぐみ、再び物を言わない。さながら巌(いわお)を前に置いているようだった。
孫権は左右を顧みてささやく。
「一代の英雄をわしは惜しむ。何とかならんか」
すると主簿(しゅぼ)の左咸(さかん)が意見した。
「おやめなさい、おやめなさい。むかし曹操(そうそう)もこの人を得て、3日に小宴、5日に大宴を催し、栄誉には寿亭侯(じゅていこう)の爵を与え、煩悩には10人の美女を贈り、日夜機嫌を取って引き留めたものでした」
「ですが、ついにその下に留まらず、五関の大将を斬り、玄徳(げんとく。劉備のあざな)のそばへ帰ってしまった例もあるではありませんか」
★小ネタとしてはうまいと思うが、史実の関羽は寿亭侯ではなく漢寿亭侯(かんじゅていこう。漢寿は地名)である。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第26回)では、曹操の上表により関羽が漢寿亭侯に封ぜられ、印を贈られたとしか書かれていない。
孫権は言葉もない。左咸は続けた。
「失礼ですが、あの曹操にしてすらそうでした。いわんや呉の国へどうして居着くものですか。苦杯をなめた曹操も、後に大きな悔いを抱きました。いま彼を殺さなければ、後には呉の大害になるに決まっています」
なお孫権は唇を結び、しばらく鼻腔(びこう)で息をしていたが、やがて席を突っ立つや否や、我にも覚えぬような大声で言った。
「斬れっ。斬るのだっ! それっ、関羽を押し出せ!」
武士たちは固まり合い、関羽を陣庭の広場まで引き立てる。そして、養子の関平と並べて首を打ち落とした。
時は建安(けんあん)24(219)年の10月。この日、晩秋の雲は低く麦城の野を覆い、雨とも霧ともつかぬ濛気(もうき)が冷ややかに立ち込めた。
★井波『三国志演義(5)』(第77回)では、建安24(219)年の冬12月とある。
孫権は馬忠への褒美として、関羽が乗っていた赤兎馬を与える。また潘璋には、これも関羽の遺物(かたみ)となった青龍の偃月刀(えんげつとう)を与えた。
「名将にあやかりたい」は誰もの心理とみえ、敵人ながら関羽の遺物は、片袖やひと筋の紐(ひも)まで呉の将士に欲しがられた。
そういう意味で、馬忠は皆から羨望(せんぼう)の的になったが、4、5日もするとひどくしょげてしまう。拝領の赤兎馬は、関羽の死んだ日から草を喰わなくなった。
秋日の下に引き出し、いかに香しい飼料をやっても、水辺にのぞかせても、首を振っては悲しげに麦城のほうへ向かっていななくのみ。
麦城には、まだ100余人が籠城していた。しかしその後、呉軍が迫ると、すでに王甫(おうほ)も関羽の死を知ったとみえ、櫓(やぐら)の上から飛び降りて死ぬ。関羽の片腕と言われた周倉(しゅうそう)も、自ら首を刎(は)ねて憤死した。
(02)関羽の死後に語られたうわさ
関羽の死後にはいろいろな不思議が伝えられた。彼の武徳と民望が、深く惜しみ嘆く庶民の口々に醸され、いつか神秘を加えて説話を作り、それが巷(ちまた)に語られるのだろう。とにかく種々(くさぐさ)なうわさが生まれた。
荊州(けいしゅう)の玉泉山(ぎょくせんざん)に普静(ふじょう)という一老僧がいる。彼はもと汜水関(しすいかん)の鎮国寺(ちんこくじ)にいた僧で、関羽とは若い時代から知っていた師であり、心友だったという。
★関羽と普静(普浄)とのつながりについては、先の第108話(04)を参照。なお、そこでは汜水関ではなく沂水関(ぎすいかん)、普静ではなく普浄となっていた。
★井波『三国志演義(5)』の訳者注によると、「(玉泉山は)湖北省(こほくしょう)当陽県(とうようけん)西にある山。ふもとに玉泉寺があり、後漢(ごかん)の建安年間(196~220年)に創建されたという言い伝えがある」という。
近ごろこの普静和尚(おしょう)が、月の白い晩に庵(いおり)の中でひとり寂坐(じゃくざ)していると、空中から自分を呼ぶ声がする。そして「還我頭来(わがくびをかえしきたれ)。還我頭来――」と、二度まで明らかに聞こえた。
仰いで見ると、雲間に関羽の顔がありありと現れ、右に周倉、左に関平、そのほかの将士も従っている。
普静は声を上げて尋ねた。
「雲長(うんちょう。関羽のあざな)、いまどこにあるか?」
すると空中の声は、いとも無念そうに答えた。
「呂蒙(りょもう)の奸計(かんけい)に陥ち、呉の殺に遭えり。和尚、わが首を求めて、わが霊を震わしめよ」
普静は庭に出て言った。
「将軍、何ぞそれ迷うの愚を悟らざるか。将軍が今日まで歩み経てきた山野の跡には、将軍と恨みを等しゅうする白骨が累々とあるではないか」
「桃園の事はすでに終わる。今は瞑(めい)して九泉に安んじて可なりである。喝!」
普静が払子(ほっす)で月を搏(う)つと、たちまち関羽の影は霧のように消え失せてしまった。
しかしその後も、月の夜、雨の夜、庵を叩いて、「師の坊、高教(おしえ)を垂れよ」とたびたび人の声がする。玉泉山の郷人(さとびと)たちは相談して一宇の廟(びょう)を建て、関羽の霊を慰めたという。
★井波『三国志演義(5)』(第77回)では、玉泉山で霊験を現し、住民を庇護(ひご)するようになった関羽の徳に感謝して、土地の者が山頂に廟を建立。春夏秋冬に祭祀(さいし)を執り行ったとある。
また孫権は、荊州戦後に大宴を開いて将士をねぎらった。ところが呂蒙の姿が見えない。使いを遣ると、恐縮した呂蒙がすぐに来た。
孫権は杯を挙げ、彼をたたえながら、その杯を取らせる。だが、呂蒙はやにわに杯をなげうつと、孫権をにらみつけて大喝した。
「碧眼の小児、紫髯の鼠賊(そぞく)。思い上がるをやめよ!」
★ここでは紫髯の鼠賊とあり、この第238話(01)の関羽の言葉(紫髯の鼠輩)と微妙に異なっている。
満座の人々は総立ちになり、呂蒙をほかへ連れていこうとする。
しかし呂蒙は恐ろしい力で振り放ち、驚き騒ぐ人々を踏みつけると、ついに上座を奪う。さらに物の怪(け)に憑(つ)かれた目を怒らし、吠ゆるがごとく言った。
「われ、戦場を縦横すること30年。いったん汝らの偽りに落ちて命を失うとも、必ず霊は蜀軍(しょくぐん)の上にあり、呉を滅ぼさずにはおかん。かく言う我は、すなわち漢(かん)の寿亭侯関羽である!」
孫権も諸人もみな震え上がり、別の閣へ逃げてしまった。それでも、灯(ひ)が消えて真っ暗になったそこから呂蒙は出てこなかった。後で諸人がそっと灯をともして行ってみると、呂蒙は自分の髪の毛をつかんで悶(もだ)え死んでいた。
これも当時、流布された巷の話のひとつである。もとより真相に遠いことは言うまでもなかろう。けれど荊州占領の後、幾ばくもなくして呂蒙が病で世を去ったことだけは事実だった。
管理人「かぶらがわ」より
さすがに関羽が斬られると、何だかぽっかり穴の開いた感じがした第238話。
関羽死後の赤兎馬の話。初めて触れたときには、人と馬とのつながりを超えたものがあって、いい話だなぁとなりますけど……。こう振り返ってみると、やはり疑問も出てきます。「いったい赤兎馬は何歳なの?」というような。
このあたり、北方『三国志』ではうまく解決されていたと思います。
『三国志』(全13巻。ほかに別巻として『三国志読本』がある)
北方謙三(きたかた・けんぞう)著
角川春樹事務所 時代小説文庫
初版 2001/06/18~2002/06/18
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ここで語られていたうわさのほうも同様で、「何で呂蒙だけ悪役にされるかなぁ……」と、一方的な関羽への思い入れだけで片づけるのは難しい。みな武勇と知恵の限りを尽くして戦い、また計り合った。これは、あくまでその結果なのですから。
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