黎陽(れいよう)から許都(きょと)に戻った曹操(そうそう)は、徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)攻めに送り込んだ劉岱(りゅうたい)と王忠(おうちゅう)のまずい戦いぶりを聞く。
そこで急使を遣わし、速やかに徐州へ攻めかかれと厳しく催促する。ところが、劉岱と王忠はどちらが先鋒に立つかでもめ始め、やむなく軍使は鬮(くじ)で決めさせた。
第088話の展開とポイント
(01)許都 丞相府(じょうしょうふ)
黎陽から許都に帰った曹操は、さっそく諸官から徐州の戦況を聞き取る。
そして劉岱と王忠が(建安〈けんあん〉4〈199〉年の)8月以来、命令通り丞相旗を打ち立てて徐州から100里に布陣し、まだ一度も攻撃していないことを知った。
★『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(ここでいう徐州は)下邳(かひ)」だという。
曹操はふたりの対応にあきれ返り、急に軍使を遣わすと、速やかに徐州へ攻めかかって敵の虚実を量れと、厳しく催促する。
(02)徐州の郊外 劉岱と王忠の軍営
軍使から曹操の命令を聞いた劉岱と王忠は、どちらが先鋒に立つかでもめ始める。
この様子を見た軍使は眉をひそめ、いま自分が鬮を作るから、それを引いて先鋒と後詰めを決めるよう言う。同意したふたりが鬮を引くと、王忠が先鋒に決まった。
(03)徐州
こうして王忠が徐州城へ攻めかかると、すぐに劉備は防御を見回ったうえ、陳登(ちんとう)に対策を尋ねる。
陳登は以前から寄せ手の丞相旗に不審を抱いていた。これは曹操の詭計(きけい)だろうと看破していたので、まずはひと当たりして敵の実力を量るよう勧める。
ならばと張飛(ちょうひ)が名乗りを上げると、劉備は彼の性格を考えて危ぶむ。
さらに劉備が兵糧のことや、自軍の大部分が曹操から預かった兵士であることなどを心配していると、関羽(かんう)が進み出て、およそ寄せ手の虚実を探る程度に当たってみると言う。
(04)徐州の城外
関羽は劉備の許しを得、3千の手勢をひきいて打って出た。10月の灰色の空から雪が紛々と舞う中、関羽の手勢が王忠軍に突っかける。
関羽は王忠をうまくあしらい、わざと逃げ出す。浅はかにも王忠が追うと、関羽は王忠の鎧(よろい)の帯をつかみ、軽々と小脇に抱えて駆け出した。壊乱する王忠軍を蹴散らし、馬100頭と武器20駄を分捕り、鮮やかに引き揚げてくる。
(05)徐州
劉備が詰問すると王忠は、丞相旗を掲げたのは曹操の命令だったと話す。すると劉備は彼の縄を解き、曹操に敵対する意思がないと伝えたうえ、美室に入れて衣服や酒を与えた。
そのあと劉備は近臣を一閣に集め、劉岱を敵陣から生け捕ってくる者を募る。
ここで劉備は、曹操に対して和せず戦わずの不戦不和の方針を採っていることを話し、王忠を殺さず生け捕った関羽の働きを高く評価した。
これを聞いた張飛は再び進み出て、劉岱を生け捕る役目を希望する。
★ここで劉備が「劉岱は、むかし兗州(えんしゅう)の刺史(しし)であったころ、虎牢関(ころうかん)の戦いで董卓(とうたく)と戦い、董卓をさえ悩ましたほどの者である……」と言っていた。
吉川『三国志』や『三国志演義』では同一人物として扱っているが、史実の劉岱はふたりいて別人。そのうえ、ふたりの劉岱は公山(こうざん)というあざなも同じなので紛らわしい。
兗州刺史を務めた劉岱は劉繇(りゅうよう)の兄で、東萊郡(とうらいぐん)牟平県(ぼうへいけん)の人。そして、この第88話で出てきた曹操配下の劉岱は沛国(はいこく)の人である。
吉川『三国志』や『三国志演義』では、兗州刺史の劉岱が初平(しょへい)3(192)年に青州(せいしゅう)の黄巾軍(こうきんぐん)を迎撃して戦死したことには触れていない。そのためふたりいる劉岱を同一人物として扱っていても、話の筋に破綻は見られない。
管理人「かぶらがわ」より
持っていくよう言われた丞相旗を立てたまま、数か月も動かなかった劉岱と王忠。もめた末に鬮で先鋒と決まった王忠でしたが、あっさり生け捕られてしまいました。
しかし、あざなまで同じ劉岱がふたりいた、というのは読み手を混乱させますね。このあたり、吉川先生はどう考えておられたのでしょう? わかりにくさを考慮して、『三国志演義』のように劉岱をひとりにまとめられたということなのか――。
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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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