曹翕(そうきゅう)

【姓名】 曹翕(そうきゅう) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

曹徽(そうき)の息子。魏(ぎ)の東平王(とうへいおう)。晋(しん)の廩丘公(りんきゅうこう)

父は曹徽だが、母は不詳。息子の曹琨(そうこん)は跡継ぎ。

242年、曹翕は曹徽が薨去(こうきょ)したためその跡を継ぎ、「東平王」に封ぜられた。

景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、3400戸となった。

管理人「かぶらがわ」より

上の加増についてのくだり、景初年間のものについては曹徽の代のことになりますね。

『三国志』(魏書・東平霊王徽伝〈とうへいれいおうきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)によると、「曹翕は晋代に入って『廩丘公』に封ぜられた」という。「その名声は、魏の皇族だった者の中では鄄城公(けんじょうこう。曹志〈そうし〉)に次いだ」とも。

266年、曹翕は世継ぎの曹琨に上奏文を託して入朝させました。その際、司馬炎(しばえん)は詔(みことのり)を下し曹翕の徳を称えたうえ、曹琨に「騎都尉(きとい)」の官を加えて任用し、衣服ひとそろいと銭10万を下賜しています。

また、曹翕は『解寒食散方(かいかんしょくさんほう)』という医書を著し、皇甫謐(こうほひつ)の著作とともに広く世に行われたということです。

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