孫弘(そんこう)

【姓名】 孫弘(そんこう) 【あざな】 ?

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)

【生没】 ?~252年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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呉(ご)の孫権(そんけん)配下の中書令(ちゅうしょれい)・太子少傅(たいししょうふ)

父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。

孫弘は、242年1月に皇太子に立てられた孫和(そんか)と、同年8月に魯王(ろおう)に封ぜられた孫霸(そんは)との間で後継者争いが起きた際、孫霸に付いた。

そのうち孫霸側の孫和に対する讒言(ざんげん)が効き、250年に孫和は皇太子を廃されたものの、孫霸には自殺が命ぜられた。同年11月、孫亮(そんりょう)が皇太子に立てられた。

翌251年12月、孫権が重い病にかかると、皇太子の孫亮が9歳と幼かったことから、武昌(ぶしょう)にいた大将軍(だいしょうぐん)の諸葛恪(しょかつかく)を召し還し、太子太傅(たいしたいふ)を兼任させた。

この際、中書令の孫弘も太子少傅を兼任することになった。

翌252年4月、孫権は諸葛恪と孫弘、太常(たいじょう)の滕胤(とういん)、将軍(このときは左将軍〈さしょうぐん〉か)の呂拠(りょきょ)、侍中(じちゅう)の孫峻(そんしゅん)の5人に後事を託して崩御(ほうぎょ)した。

もともと孫弘は諸葛恪と仲が悪く、自身が粛清されることを恐れた。そこで孫権の訃報を抑え、詔(みことのり)を改作して諸葛恪を排除しようと考えた。

しかし、このことを孫峻が諸葛恪に伝えた。諸葛恪は「相談がある」と言って招き、その席で孫弘は殺害された。

管理人「かぶらがわ」より

この孫弘については、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・張昭伝〈ちょうしょうでん〉)に付された「張休伝(ちょうきゅうでん)」に、張休を讒訴(ざんそ)して自殺に追いやった話があったり。

『三国志』(呉書・朱拠伝〈しゅきょでん〉)にも、250年に新都郡丞(しんとぐんじょう)に左遷された朱拠が新都郡に着かないうちに、孫弘が繰り返し讒言を行い、孫権が病床にあるのをいいことに詔をでっちあげ、追っ手を遣わして朱拠に自殺を命じた話があったり。

『三国志』(呉書・孫権潘夫人伝〈そんけんはんふじんでん〉)には、252年に孫権の病が重くなった際、潘皇后(はんこうごう)が孫弘のもとに使いを遣り、漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)の妻であった呂后(りょこう)が自ら政治を行った、という先例について尋ねさせたという話もあったり。

まぁ、そういう性質の人だったようです。ただ孫弘に限らず、諸葛恪・孫峻・潘皇后も、あまりいい死に方をしていません。

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