劉先(りゅうせん) ※あざなは始宗(しそう)

【姓名】 劉先(りゅうせん) 【あざな】 始宗(しそう)

【原籍】 零陵郡(れいりょうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第145話で初登場。
【演義】 第040回で初登場。
【正史】 登場人物。

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私の目に映る者、みなそう(群凶〈凶悪な者ども〉)です

父母ともに不詳。周不疑(しゅうふぎ)は甥(母の姉妹の息子)。

劉先は博学で記憶力に優れ、老荘の学を好み、漢朝(かんちょう)の故実にも習熟していたという。

劉先が、荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)に仕えて別駕(べつが)を務めていたとき、上表文を携えて許(きょ)へ赴き、曹操(そうそう)と会見する機会があった。

大勢の賓客が居並ぶ中、曹操が、以前に劉表が郊外で天を祭ったことについて尋ねると、劉先はこう答えた。

「劉牧(荊州牧の劉表)は漢室に肺腑(はいふ。心の奥底)を託され、州牧の位にお就きです」

「ところが王道はいまだ安定せず、群凶に道路をふさがれており、献上すべき宝玉や絹織物を抱えたまま、上奏文を書いてもお届けすることができません」

「そのため劉牧は天と地を祭り、漢室に真心をお示しになったのです」

重ねて曹操が「群凶とは誰のことか?」と尋ねると、再び劉先が答えた。

「私の目に映る者、みなそうです」

さらに曹操が軍事力を誇示して圧力をかけたところ、劉先は、その態度を古代の蚩尤(しゆう)や智伯(ちはく)に例えて皮肉る。これを聞いた曹操は黙り込んでしまったという。

劉先は武陵太守(ぶりょうたいしゅ)に任ぜられ、荊州へ戻った。

蚩尤は黄帝(こうてい)に対して反乱を起こした末、諸侯に滅ぼされた人物。

智伯は春秋(しゅんじゅう)時代の人。趙襄子(ちょうじょうし)らに殺された。

199年、曹操と袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で対峙(たいじ)すると、袁紹は劉表に救援を求める使者を遣わす。

劉表は要請を承諾しながらも進発せず、逆に曹操の支援もせず、荊州を保ったまま天下の形勢の変化を傍観しようとした。

劉先や従事中郎(じゅうじちゅうろう)の韓嵩(かんすう)は、現状で中立の立場を取り続けることは不可能だとして、曹操への帰順を勧める。重臣の蒯越(かいえつ)も同様に勧めたものの、劉表は迷って決心がつかない。

結局、韓嵩が劉表の命を受けて許へ赴き、曹操の実情を探ってくることになった。

韓嵩は侍中(じちゅう)・零陵太守に任ぜられて荊州へ戻ると、曹操の威徳について報告。そのうえ劉表に、お子を人質として許へ送られたほうがよいとも勧める。

これを聞いた劉表はひどく腹を立て、韓嵩や彼に同行した者を処刑しようとした。

だが、劉表の妻の蔡氏(さいし)が執り成したため、韓嵩は処刑を免れ拘禁される。

208年7月、曹操が軍勢をひきいて南下を開始し、荊州の攻略に乗り出す。

同年8月、劉表が病死。長男の劉琦(りゅうき)を差し置き、次男の劉琮(りゅうそう)が跡を継ぐ。

ところが、ほどなく劉琮は曹操に帰順する。劉先は漢の尚書(しょうしょ)となり、後に魏(ぎ)の尚書令(しょうしょれい)となった。

その後の劉先については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・劉表伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『零陵先賢伝(れいりょうせんけんでん)』によるもの。

劉先が曹操と許で会見した件は、韓嵩が許へ赴いた前なのか、後なのか、イマイチよくわかりませんでした。劉表が郊外で天を祭ったのが、いつのことだったのかわかるといいのですけど……。

曹操の脅しに屈しなかった劉先は肝が据わっていると思います。と同時に、劉先の皮肉を聞かされて短気を起こさない曹操にも、やはり器の大きさを感じました。

この時代、降伏する側もそれを受け入れる側も、気持ちの切り替えが早いですね。

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