【姓名】 楊竺(ようじく) 【あざな】 ?
【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん)
【生没】 ?~250年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
「二宮の変」の首謀者
父母ともに不詳。楊穆(ようぼく)という兄がいた。
242年、前年に皇太子の孫登(そんとう)が薨(こう)じたことに伴い、孫権(そんけん)は新たに孫和(そんか)を立てる。
だが、孫権は孫和の弟である孫霸(そんは)を魯王(ろおう)に封じ、ふたりを同等に扱ったため、ほどなく兄弟の間がしっくりいかなくなった。
この暗闘は兄弟に仕える重臣たちも巻き込む形で激化し、後に「二宮の変」と呼ばれる派閥争いに発展する。
陸遜(りくそん)・吾粲(ごさん)・顧譚(こたん)らは、嫡子と庶子との区別を明確にするよう求めて皇太子の孫和を支持した。
一方で楊竺は、全寄(ぜんき)らと結託して孫霸を守り立て、孫和の地位を危うくする。
楊竺らの讒言(ざんげん)を受けた吾粲は獄死(時期は不明)し、顧譚は交州(こうしゅう)へ配流(はいる。こちらも時期は不明)された。
陸遜にいたっては、孫権に諫言を繰り返した末に疎まれ、245年に憤死してしまった。
250年、孫権は孫和を廃位して故鄣(こしょう)へ幽閉し、孫霸には自害を命ずる。このとき楊竺も誅殺され、遺骸は長江(ちょうこう)に捨てられたという。
「二宮の変」に関わって誅殺されたり配流されたりした者は数十人に上り、呉の屋台骨を揺るがした。
この年のうちに、孫権は末子の孫亮(そんりょう)を新たな皇太子に立てた。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫和伝)や『三国志』(呉書・孫霸伝)および『三国志』(呉書・陸凱伝〈りくかいでん〉)に付された「陸胤伝(りくいんでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』などによるものです。
英明な皇太子だった孫登の急死に端を発する「二宮の変」は、孫和が新たな皇太子に立てられた242年から8年後の250年、誰も救われない形で決着しました。
歴史にタラレバはありませんけど、孫登が長生きしていれば、このような騒動は起きなかったのでしょうか?
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