李衡(りこう) ※あざなは叔平(しゅくへい)

【姓名】 李衡(りこう) 【あざな】 叔平(しゅくへい)

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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いじめた皇子が皇帝に

父母ともに不詳。妻は習氏(しゅうし)。

李衡は襄陽の兵士の家に生まれ、後漢末(ごかんまつ。220年ごろ)に呉(ご)に移住して武昌(ぶしょう)の庶民となる。

羊衜(ようどう)らに見いだされて郎(ろう)に取り立てられると、李衡は、権力を笠に着て悪行を重ねる呂壱(りょいつ)を厳しく糾弾し、ついに呂壱は誅殺された。

呂壱が誅殺されたのは238年のこと。

それから李衡は諸葛恪(しょかつかく)の司馬(しば)を長く務め、幕府の諸事を取り仕切るまでになる。

252年、孫権(そんけん)が崩じて孫亮(そんりょう)が帝位に即くと、諸葛恪が実権を握る。

諸葛恪は、帝族が長江(ちょうこう)沿いの軍事的な要地に住むことを好まず、琅邪王(ろうやおう)として虎林(こりん)にあった孫休(そんきゅう)を丹楊郡(たんようぐん)へ移した。

翌253年、孫亮の意向をくんだ孫峻(そんしゅん)によって諸葛恪が誅殺されると、李衡は自ら望んで丹楊太守(たんようたいしゅ)として赴任する。

李衡は、妻の習氏からやめるよう意見されても聞く耳を持たず、この地にいた孫休の過失を追及し続けた。

そのため孫休は上書してよそへ移ることを願い出、会稽郡(かいけんぐん)へ移封されることになった。

ところが258年、孫亮は専権を振るう孫綝(そんりん)の誅殺に失敗して帝位を追われ、何と孫休が帝位に即く。

驚いた李衡は魏(ぎ)へ亡命しようと考えたが、妻の習氏は孫休の人柄を見抜いており、自ら出頭して処罰を請うたほうがよいと言う。

李衡が妻の勧めに従って出頭したところ、やはり孫休は罪に問わず、かえって威遠将軍(いえんしょうぐん)を加官し、棨戟(けいげき。飾りの付いた矛)を用いることも許した。

その後の李衡については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『襄陽記(じょうようき)』によるもの。

妻の機転で命拾いした李衡ですけど、『襄陽記』には、その妻に内緒で進めた財産づくりの話がありました。

それによると、李衡は普段から家産を殖やそうと考えていましたが、妻が許さなかったのだそうです。

そこで李衡は10戸の小作人たちを、武陵(ぶりょう)にあった汜洲(ししゅう)という中州に送り込み、密かに1千株の甘橘(ミカン)を植えさせました。

やがて李衡が死に臨む(時期は不明)と、息子に秘密の荘園があることを打ち明けます。

李衡が亡くなって20日余り経ったところで、息子からこの話を伝えられると、習氏は納得した様子で、家から10戸の小作人がいなくなって7、8年になるから、それは父上が荘園を造らせたに違いないと応えたという。

呉の末年(280年ごろ)には李衡の甘橘も立派に成長し、毎年絹にして数千匹の利益を生むようになり、李家の暮らし向きも大いによくなったのだそう。

そして晋(しん。東晋)の咸康(かんこう)年間(335~342年)になっても、李衡の荘園の跡と枯れた木が残っていたのだとか……。

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