【姓名】 朱績(しゅせき) 【あざな】 公緒(こうしょ)
【原籍】 丹楊郡(たんようぐん)故鄣県(こしょうけん)
【生没】 ?~270年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・朱然伝(しゅぜんでん)』に付された「朱績伝」あり。
呉の混乱を憂慮し、密かに蜀(しょく)に魏(ぎ)の牽制(けんせい)を要請
父は朱然だが、母は不詳。
朱績は、父の朱然が高位にあったことから郎(ろう)に任ぜられ、後に建忠都尉(けんちゅうとい)になった。
叔父の朱才(しゅさい。朱治〈しゅち〉の息子)が死去(時期は不明)すると、朱績が残された兵士の指揮を引き継ぐ。
231年、朱績は、太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)に付き従って五渓(ごけい)の異民族の討伐に加わり、度胸の良さをたたえられた。
やがて偏将軍府(へんしょうぐんふ)の営下督(えいかとく)に昇進して盗賊の取り締まりにあたるが、法を順守する姿勢を貫いた。
魯王(ろおう。242~250年)の孫霸(そんは)は朱績と親しく付き合いたいと考え、あるとき彼の役所に出向いて同座したが、朱績は恐れ多いとして申し出を受け入れなかった。
249年、父の朱然が死去すると朱績は跡を継ぎ、平魏将軍(へいぎしょうぐん)・楽郷督(らくきょうとく)に任ぜられた。
翌250年、魏の征南将軍(せいなんしょうぐん)の王昶(おうちょう)が軍勢をひきいて江陵(こうりょう)へ攻め寄せたものの、陥すことができないまま引き揚げる。
この際、朱績は奮威将軍(ふんいしょうぐん)の諸葛融(しょかつゆう)に、共同での追撃作戦を持ちかけて同意を得た。
すぐさま朱績は出立し、紀南(きなん)から30里のところで王昶軍を撃破する。だが、諸葛融の軍勢が続いてこなかったため、魏軍に決定的な打撃を与えることはできなかった。
孫権(そんけん)は朱績の働きを激賞する一方、諸葛融の失態を厳しく責める。
それでも兄が大将軍(だいしょうぐん)の諸葛恪(しょかつかく)だったことから、諸葛融は免職されずに済んだ。
もともと朱績は諸葛恪や諸葛融と仲が悪かったが、これ以来、より険悪な間柄となる。
252年、朱績は鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)に昇進。
翌253年春、諸葛恪が魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を攻めたが、自分から協力を要請しておきながら、朱績を半州(はんしゅう。九江〈きゅうこう〉付近)に留め置き、諸葛融に彼の任務を兼ねさせる。
同年冬、孫峻(そんしゅん)によって諸葛恪と諸葛融が誅殺されると、朱績は楽郷へ戻って仮節(かせつ)となった。
257年、施績(朱績)は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に昇進。
このころ孫綝(そんりん)が国政をほしいままにし、重臣の間で動揺が起こる。施績は魏が混乱に乗ずることを心配し、密かに蜀へ書簡を送って魏の牽制を要請した。
蜀はこれに応え、右将軍(ゆうしょうぐん)の閻宇(えんう)に5千の軍勢を付けて白帝(はくてい)の守備を増強したうえ、施績からの連絡を待たせた。
翌258年、施績は上大将軍(じょうだいしょうぐん)・都護督(とごとく)に昇進。西陵(せいりょう)から巴丘(はきゅう)にかけての長江(ちょうこう)流域の守備を任される。
264年、施績は左大司馬(さだいしば)に昇進。
270年、施績は死去した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、朱績の父である朱然は朱治(224年没)の喪が明けたとき、もとの姓(施氏)に戻りたいと願い出たことがありましたが、孫権の許しは得られなかったそうです。
その後、五鳳(ごほう)年間(254~256年)になって朱績が孫亮(そんりょう)に上表し、ようやく施姓に戻ることが許されたのだという。
孫霸との個人的な付き合いを断って難を避けたり、諸葛兄弟と対立しながらも失脚を免れるなど、朱績は巧みな処世が目を引きますね。
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