朱氏(しゅし)C ※孫休(そんきゅう)の妻、景皇后(けいこうごう)

【姓名】 朱氏(しゅし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 ?~265年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫休朱夫人伝(そんきゅうしゅふじんでん)』あり。

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呉(ご)の孫休の正室、景皇后(けいこうごう)

父は朱拠(しゅきょ)、母は孫魯育(そんろいく。朱公主〈しゅこうしゅ〉)。朱熊(しゅゆう)と朱損(しゅそん)は兄弟。

なお、孫休の4人の息子(孫ワン〈そんわん。雨+單〉・孫コウ〈そんこう。雷+大〉・孫壾〈そんもう〉・孫ホウ〈そんほう。亠+先+攴〉)は、みな生母がはっきりしない。

朱氏は赤烏(せきう)年間(238~251年)の末、孫権(そんけん)の意向を受けて孫休の妃(きさき)となった。

252年1月、孫休が孫権から琅邪王(ろうやおう)に封ぜられると、朱氏も任地の丹楊郡(たんようぐん)へ随行する。

建興(けんこう)年間(252~253年)に孫峻(そんしゅん)が政治を壟断(ろうだん)すると、呉の帝族は自分の身に不安を覚えた。

ただ伯母の全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班〈そんろはん〉。朱公主〈孫魯育〉の姉)だけは、夫の全琮(ぜんそう)の一族である全尚(ぜんしょう)の妻が孫峻の姉だったため安泰だった。

もともと孫和(そんか)が皇太子だったとき、全公主は、孫和の母である王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉)を讒言(ざんげん)していた。

全公主は孫和を廃し、代わりに孫霸(そんは)を皇太子に立てたいと考えたものの、朱公主が同意しなかったため、ふたりの間に仲たがいが生じた。

五鳳(ごほう)年間(254~256年)のこと、孫儀(そんぎ)が孫峻の暗殺を謀り、事が発覚して誅殺された。

全公主はこの事件にかこつけ、朱公主も孫儀の企てに加わっていたと上言する。これを受けて孫峻は無実の朱公主を殺害した。

孫休は自身に禍いが及ぶことを恐れ、朱氏を建業(けんぎょう)へ遣り、孫峻のもとに出頭させることにした。ふたりは手を取り合い、涙を流して別れた。

しかし朱氏が建業に着くと、孫峻は彼女を孫休のもとへ帰らせた。

太平(たいへい)年間(256~258年)になって孫亮(そんりょう)は、朱公主が全公主のために殺害されたことを知る。

孫亮に詰問された全公主は、朱拠の息子である朱熊と朱損に責任を押しつけたため、ふたりとも誅殺された。

朱損の妻が孫峻の妹だったことから、ますます孫綝(そんりん。孫峻の従兄弟)は孫亮を嫌うようになり、258年10月に孫亮を廃して孫休を即位させた。その後、262年に朱氏が皇后に立てられた。

264年7月、孫休が崩御(ほうぎょ)すると、朱氏は丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)や左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)の意向に従い、孫晧(そんこう)を帝位に即けた。

だが同年9月、朱氏は孫晧によって皇太后から景皇后に位を貶(おと)され、安定宮(あんていきゅう)と呼ばれることになった。

さらに翌265年7月、朱氏は孫晧の迫害を受けて死に追いやられ、定陵(ていりょう。孫休の陵)に合葬された。

管理人「かぶらがわ」より

朱氏だけでなく、その母である朱公主(孫魯育)の関連記事も拾ってみました。朱氏自身は、伯母の全公主(孫魯班)に振り回された感じですね。

朱氏は孫休の姪にあたるため、孫休は彼女を妃としたことで識者から非難されています。

これに似た例としては前漢(ぜんかん)の恵帝(けいてい。在位、前194年~前188年)が挙げられます。ちなみに恵帝の皇后は、姉の魯元公主(ろげんこうしゅ)の娘の張氏(ちょうし)でした。

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