吉川『三国志』の考察 第204話「成都陥落(せいとかんらく)」

李恢(りかい)の説得に応じて劉備(りゅうび)に降った馬超(ばちょう)。さっそく従弟の馬岱(ばたい)と成都(せいと)へ行き、漢中(かんちゅう)から援軍が来ない旨を伝え、劉璋(りゅうしょう)に降伏を促してみたいと願い出て許される。

成都城内では重臣の意見が分かれ、なかなかまとまらない。そのうち劉備の使いとして簡雍(かんよう)がやってくると、劉璋はひと晩考えた末に開城を決断した。

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第204話の展開とポイント

(01)葭萌関(かぼうかん)

馬超は李恢に伴われ、劉備に会う。劉備はほとんど上賓の礼をもって遇した。

そこへ(馬超の)腹心の馬岱(ばたい)がひとつの首級をもたらす。漢中軍の軍監(ぐんかん)たる楊柏(ようはく)の首だった。馬超はこの首を劉備に献ずる。

こうして葭萌関の守備も、今は憂いも除かれたので、劉備は最初の通りに孟達(もうたつ)と霍峻(かくしゅん)に任せ、その余の軍勢をひきいて綿竹(めんちく)へ帰った。

(02)綿竹関

劉備が着いた日も合戦で、蜀(しょく)の劉晙(りゅうしゅん)と馬漢(ばかん)が盛んに攻めている最中だった。

にもかかわらず、留守していた趙雲(ちょううん)や黄忠(こうちゅう)は常と変わらず迎えに出たのみか、城中で盛宴を張り、凱旋(がいせん)の賀を述べた。

そのうち趙雲が「ちょっと中座いたします」と杯を置き、城外へ出ていったかと思うと、ほどなく劉晙と馬漢の首を引っ提げて戻り、「賀宴のお肴(さかな)に」と披露する。

ここで馬超が、従弟の馬岱とふたりで成都へ赴き、劉璋を説いてみたいと進言。劉備は諸葛亮(しょかつりょう)に諮るよう言い、諸葛亮は賛成したうえで教えた。

「もし劉璋がきみの言に服さなかったときは、こうこうしたまえ」

(03)成都

それから十数日後、馬超と馬岱は蜀の府城である成都門の壕際(ほりぎわ)に駒を立て、「劉璋にひと言せん」と呼ばわっていた。

遥かな城楼に劉璋が姿を見せると、漢中からの援軍は来ないと言い、自分が張魯(ちょうろ)らに愛想を尽かし、劉備に従った経緯を話す。

劉璋は落胆のあまり昏倒(こんとう)しかける。侍臣に支えられて楼台の内へ隠れたさまが、馬超と馬岱にも見えた。ふたりは馬を返して城外に陣し、劉璋の返答を待つ。

城中では主戦派や籠城派、また和平派などいくつにも分かれ、二日二晩の評定に大論争がもつれていた。しかし結局は玉砕か降伏か、そのふたつを出ない。

この間にも劉璋を見限り、城中を抜け出す投降者が続出する。蜀郡の許靖(きょせい)までが城を越えたと聞き、劉璋は「成都も今が終わりか――」とひと晩中、慟哭(どうこく)した。

翌日、簡雍が一輛(いちりょう)の車に乗り、城門の下へ来る。劉璋が迎えるよう言うと、案内された簡雍は車のまま城中へ通ったのみか、ひどく尊大ぶり、迎えた将士を睥睨(へいげい)していった。

ひとりのなお気概のある大将が、「こらっ、ここをどこと心得る。蜀の本城に人はいないと思うかっ!」と剣を抜き、車上の簡雍の鼻面へ突きつけた。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第65回)では、ここで簡雍を大声で叱りつけていたのは秦宓(しんふく)。

簡雍はあわてて車から飛び降り、無礼を詫び、急に慇懃(いんぎん。丁寧)になった。しかし劉璋は彼を軽んずることなく、堂上に請じて大賓の礼を執った。

簡雍は口を極めて劉備の人間をたたえる。その性は寛弘温雅、心をもって結べば、決して相害するような奸人(かんじん)ではないと。

劉璋はひと晩、簡雍を泊め、翌朝には翻然と悟ったもののごとく、印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)と文籍を渡し、ともに城を出て降参の意を表した。

劉備は自ら迎えに立ち、劉璋の手を取って言う。

「私交としては人情に動かされるが、時の勢いと公なる立場から、昨日まで成都を攻め、今日あなたの降を容れることとなった。必ず個人同志の情誼(じょうぎ)と公人的な大義とを混同して、この玄徳(げんとく。劉備のあざな)を恨みたもうな」

劉備の目には熱い涙すら見えたので、むしろ劉璋は降伏の時を遅くしたことを自身の罪と思ったほどであった。

成都の民は平和を謳歌(おうか)した。香を焚き、花を切り、道を清めた。劉備と劉璋は馬を並べて城中へ入った。劉備は府堂に上り、こう宣言する。

「蜀は、改まって新しい統治の下に、今日をもってその更生の第一日とする。なお昨日に等しい錯覚を抱いて、この一新に不平のある者は去れ」

蜀中の大将や文官はほとんど階下に集まり、異存ない旨を誓った。だが、黄権(こうけん)と劉巴(りゅうは)だけは自邸に籠もり、門を閉じたまま姿を見せない。ふたりに対する非難の声が起こったが、劉備は険悪な空気を予察して固く盲動を禁じた。

式が終わると、劉備は自ら劉巴の門前に立ち、また黄権の門前にも立った。そして諄々(じゅんじゅん)と説くと、まず黄権が出て門外にぬかずき、続いて劉巴も恭順を誓った。

成都は収められた。こうして蜀中は平定した。諸葛亮が劉備の了承を得て取り計らい、劉璋を振威将軍(しんいしょうぐん)に任じ、妻子一族とともに荊州(けいしゅう)の南郡(なんぐん)へ移した。

井波『三国志演義(4)』(第65回)では、劉璋を南郡の公安(こうあん)に移住させたとあった。

次に劉備は恩爵授与の大令を発する。譜代の大将や幕賓はもちろん、降参の諸将にまで、その封爵と行賞はあまねく行き渡った。

劉備は、この栄を留守の関羽(かんう)に分かつことも忘れない。関羽だけでなく、彼の下にあり、よく後方を守ってくれた将士や軽輩に至るまで、恩典から漏れないようにした。そのため成都から荊州へ、黄金500斤、銭5千万、錦1万匹が送られた。

井波『三国志演義(4)』(第65回)では、黄金500斤の後に白銀1千斤ともあった。銭5千万は同じだが、蜀錦1千疋(びき)とあり、こちらは数量に違いがある。

蜀中の窮民には倉廩(そうりん)を開いて施し、百姓の中の孝子や貞女を頌徳(しょうとく)し、老人には寿米を恵むなどの善政を布(し)く。蜀の民は劉璋時代の悪政と引き比べ、新政府の徳をたたえて業を楽しみ、喜び合う声は家々に満ちた。

国ばかりでなく、このときほどまた、劉備の左右に人物の集まったこともない。軍師の諸葛亮、盪冦将軍(とうこうしょうぐん)・寿亭侯(じゅていこう)の関羽。

井波『三国志演義(4)』(第65回)では、盪寇将軍・漢寿亭侯(かんじゅていこう)とある。

小ネタとしてはうまいと思うが、史実の関羽は寿亭侯ではなく漢寿亭侯(かんじゅていこう。漢寿は地名)である。なお井波『三国志演義(2)』(第26回)では、曹操の上表により関羽が漢寿亭侯に封ぜられ、印を贈られたとしか書かれていない。

征虜将軍(せいりょしょうぐん)・新亭侯(しんていこう)の張飛(ちょうひ)、鎮遠将軍(ちんえんしょうぐん)の趙雲、征西将軍(せいせいしょうぐん)の黄忠、揚武将軍(ようぶしょうぐん)の魏延(ぎえん)、平西将軍(へいせいしょうぐん)・都亭侯(とていこう)の馬超。

馬超の官爵について、井波『三国志演義(4)』(第65回)では平西将軍とだけあり、爵位(都亭侯)には触れていなかった。

ほか孫乾(そんけん)・簡雍・糜竺(びじく。麋竺)・糜芳(びほう。麋芳)・劉封(りゅうほう)・呉班(ごはん)・関平(かんぺい)・周倉(しゅうそう)・廖化(りょうか)・馬良(ばりょう)・馬謖(ばしょく)・蔣琬(しょうえん)・伊籍(いせき)などの中堅。

これ以外には新たに劉備に協力し、あるいは戦後に降参して随身一味を誓った輩(ともがら)にて、前将軍(ぜんしょうぐん)の厳顔(げんがん)、蜀郡太守(しょくぐんたいしゅ)の法正(ほうせい)、掌軍中郎将(しょうぐんちゅうろうしょう)の董和(とうか)、長史(ちょうし)の許靖。

許靖の官職について、井波『三国志演義(4)』(第65回)では左将軍長史(さしょうぐんちょうし)とある。

営中司馬(えいちゅうしば)の龐義(ほうぎ。龐羲)、左将軍の劉巴、右将軍(ゆうしょうぐん)の黄権なとどいう錚々(そうそう)たる人物があるし――。

呉懿(ごい)・費観(ひかん)・彭羕(ほうよう)・卓膺(たくよう)・費詩(ひし)・李厳(りげん)・呉蘭(ごらん)・雷同(らいどう。雷銅)・張翼(ちょうよく)・李恢・呂義(りょぎ)・霍峻・鄧芝(とうし)・孟達・楊洪(ようこう)あたりの人々も、それぞれ有能な人材であり、まさに多士済々の盛観だった。

あるとき劉備は、将軍たちにも田宅を分け与え、その妻子にまで安住を得させたいとの意中を漏らす。

しかし趙雲が反対。蜀外へ一歩出れば、まだ凶乱をうそぶく徒が諸州に満ちているとして、天下の事ことごとく定まる後、初めて郷土に一炉を持ち、百姓とともに耕すこそ身の楽しみ、また本望でなければならないと述べる。

「善いかな、趙雲の言」と、諸葛亮もともに言った。

「蜀の民は久しい悪政と兵革の乱にひどく疲れています。いま田宅を彼らに返して業を励ませば、たちまち賦税(ふぜい)も軽しとし、国のために、いや国のためとも思わず、ただ孜々(しし)として稼ぎ、働くことを無上の安楽といたしましょう」

この前後、諸葛亮は政堂に籠もり、新しき蜀の憲法・民法・刑法を起草していた。その条文は極めて厳であったので、法正が恐る恐る忠告する。

「いま蜀の民は仁政を喜んでいるところですから、漢中の皇祖(漢の高祖〈こうそ〉劉邦〈りゅうほう〉)のように法は三章に約し、寛大になさってはいかがですか?」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「漢の高祖劉邦は秦(しん)を倒し関中(かんちゅう)に入ると、繁雑な秦の法を省き三章のみとし、関中の民を慰撫(いぶ)した」という。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「関中は現在の陝西省(せんせいしょう)関中盆地。東を函谷関(かんこくかん)、南を武関(ぶかん)、北を蕭関(しょうかん)、西を散関(さんかん)に囲まれていることからこの名がある」という。

諸葛亮は笑って答えた。

「漢王(劉邦)は、その前時代の秦の商鞅(しょうおう)が苛政(かせい)や暴政を布き、民を苦しめた後なので、いわゆる三章の寛仁な法をもって、まず民心を馴(な)ずませたのだ」

「前蜀の劉璋は暗弱で紊政(ぶんせい)。ほとんど威もなく、法もなく、道もなく、かえって良民の間には、国家に厳しい法律と威厳のないことが寂しくもあり悩みでもあったところだ」

「民が峻厳(しゅんげん)を求めるとき、為政者が甘言をなすほど愚なる政治はない。仁政と思うは間違いである」

法正は、さらに懇切に説かれると心から拝服し、以来、諸葛亮を敬うこと数倍した。

数日後、国令・軍法・刑法などの条令が布告され、西蜀四十一州にわたって兵部が設けられた。内は民を守り、外は国防にあたり、再生の「蜀」はここに初めて国家の体を備えた。

(04)建業(けんぎょう)

千里の上流から江を下って、漢中や西蜀あたりの情報はかなり早く、呉(ご)へも聞こえてくる。

ある日、孫権(そんけん)は衆臣の中でこう言った。

「『蜀の国を取れば、必ず荊州は呉へ返す――』。これは玄徳がかねがね口癖に言っていた約束である。しかるにいま蜀四十一州を取りながら、まだ何らの誠意も示してこない」

「予の忍耐にも限りがある。いっそのこと大軍を差し向け、荊州をこちらへ収めてしまおうと考えるが、おのおのの所存はどうか?」

すると張昭(ちょうしょう)が「まだ、まだ」と、ひとり頭(こうべ)を振っていた。呉・蜀・魏(ぎ)のうちで、いま最も恵まれているのは呉だとし、求めて大軍を起こすにはあたらないというのだ。

また、張昭はこのような一策も献じた。

劉備が頼みとしているのは諸葛亮ひとりだが、その兄の諸葛瑾(しょかつきん)は久しく呉に仕えている。いま罪を唱えて彼を使いに立て、もし荊州を返してもらえなければ、諸葛亮の兄たる筋をもって、この諸葛瑾をはじめ妻子一族は残らず斬罪に処されます、と言わせるのだと。

孫権は、落ち度のない諸葛瑾の妻子を獄には下せないと言うが、張昭は、計のためだとよく申し聞かせ、得心させたうえで仮の獄舎へ移しておけばよいと応ずる。

翌日、諸葛瑾は君命を受け、呉宮の内に召されていた。

管理人「かぶらがわ」より

ついに劉備が成都への入城を果たし、広大な蜀の地を手にします。この第204話では、彼の配下がずらっと挙げられていたので拾っておきました。ただ、この時点(建安〈けんあん〉19〈214〉年)の肩書きとしては違和感がある人物も多かったです。

少し調べてみると『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)に、建安24(219)年秋の上表文というものがありました。

これは群臣が劉備を漢中王に推挙し、そのことを漢帝(献帝〈けんてい〉)に上表したものなのですが、どうもこのあたりを参考にされているようです。時期的なズレがあるため、この上表文を参考にというのは、かなり無理な感じもしますね……。

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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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