太史慈(たいしじ) ※あざなは子義(しぎ)

【姓名】 太史慈(たいしじ) 【あざな】 子義(しぎ)

【原籍】 東萊郡(とうらいぐん)黄県(こうけん)

【生没】 166~206年(41歳)

【吉川】 第055話で初登場。
【演義】 第011回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・太史慈伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

一騎討ちから生まれた孫策(そんさく)との絆

父母ともに不詳。太史享(たいしきょう)という息子がいた。

太史慈は若いころから学問を好み、郡に仕えて奏曹史(そうそうし)を務める。

186年、東萊郡と青州(せいしゅう)との間で問題が持ち上がり、どちらの言い分が正しいのか判断がつかず、早く朝廷に上聞したほうが有利という状況になった。

このとき太史慈が東萊郡の使者に選ばれ、昼夜兼行で洛陽(らくよう)を目指す。すでに青州側の上書は発送されていた。

洛陽到着後、太史慈は、役所に取り次ぎを願い出ていた青州の使者を見つけ、言葉巧みに上書を見せてもらうと、それを小刀で切り裂いてしまう。

こうして東萊郡の上書だけが受理され、この件では青州に不利な処分が下った。

自分の名は知られるようになったものの、太史慈は青州の役所から恨まれたので、災いを避けようと考えて遼東(りょうとう)へ赴く。

北海国相(ほっかいこくしょう)の孔融(こうゆう)は、太史慈のことを伝え聞いて人柄を評価し、たびたび彼の母のところへ贈り物を届けさせる。

このころ孔融は黄巾(こうきん)討伐のため、軍勢をひきいて都昌(としょう)に駐屯していたが、そこで管亥(かんがい)に包囲された。太史慈は遼東から戻ると、母の言葉に従って都昌に駆けつけ、夜陰に紛れて城内へ入る。

そして太史慈は孔融の意向を受け、一計を案じて城外の包囲を突破し、平原国相(へいげんこくしょう)の劉備(りゅうび)に救援を頼みに行く。

劉備は太史慈の話に心を動かされ、3千の精兵を繰り出す。援軍の到着を聞いた賊軍は四散し、孔融は窮地を脱した。

しばらくして太史慈は長江(ちょうこう)を渡り、曲阿(きょくあ)で揚州刺史(ようしゅうしし)の劉繇(りゅうよう)と会う。そこへ孫策の軍勢が押し寄せたので、太史慈は敵情偵察に出た。

太史慈が騎兵ひとりを連れて神亭(しんてい)の辺りを駆けていたところ、ちょうど韓当(かんとう)・宋謙(そうけん)・黄蓋(こうがい)ら13騎を従えた孫策が姿を現す。

太史慈は臆することなく挑みかかり、自分の手戟(しゅげき)を奪われながらも、孫策から兜(かぶと)を奪ってみせる。ほどなく敵味方の歩騎が集まってきたので、ふたりは左右に分かれた。

太史慈は、孫策に敗れた劉繇と豫章(よしょう)へ逃げようとしたが、途中の蕪湖(ぶこ)で行方をくらませ、山中に入って丹楊太守(たんようたいしゅ)を称する。

太史慈が涇県(けいけん)まで進出して屯府を置くと、多くの山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)が帰属した。それでも孫策自身が討伐に乗り出したことで、ついに太史慈は捕らえられてしまう。

だが孫策は太史慈の縄目を解き、すぐさま門下督(もんかとく)として起用。さらに呉県に戻ると兵を預け、折衝中郎将(せっしょうちゅうろうしょう)に任じた。

195年、劉繇が豫章で病死し、配下の兵や民ら1万余人が行き場をなくしたとき、太史慈は孫策の命を受けて安撫(あんぶ)にあたる。

側近たちは、太史慈が戻ってくることはないと案じたが、孫策は疑いを抱かずに彼の出発を見送った。太史慈はふた月以内に戻ると言い残し、約束通りに戻ってきた。

劉表(りゅうひょう)の従子(おい)の劉磐(りゅうはん)は勇猛で、しばしば艾(がい)や西安(せいあん)といった諸県を荒らしていた。

そこで孫策は、海昬(かいこん)および建昌(けんしょう)近辺の6県を分割し、太史慈を建昌都尉(けんしょうとい)に任じて統治を委ね、海昬に役所を置かせる。太史慈が部将の指揮を執るようになると、劉磐が侵攻してくることもなくなった。

200年、急逝した孫策の跡を孫権(そんけん)が継ぐと、太史慈は劉磐の動きを抑えてきたことが評価され、南方地域の諸事を任せられた。

206年、太史慈は41歳で死去した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、太史慈は身長が7尺(せき)7寸あり、美しいひげと長い腕を持ち、その弓は百発百中だったそう。

孫策に付き従って麻保(まほ)の賊を討伐した際、砦(とりで)の楼上で悪口を言っていた賊の手を射て、柱に縫い付けたこともあったのだとか。

また、彼の評判を聞きつけた曹操(そうそう)から手紙が届いたこともあったといい、太史慈が文箱を開けてみると、手紙には何も書かれておらず、薬草の当帰(とうき)だけが入っていました。

これは「当(まさ)に帰すべし」との謎かけだったという。

太史慈ほどの逸材なら皆が欲しがって当然ですけど、そのような中での孫策との出会いは、まさに奇縁でしたね。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました