【姓名】 朱異(しゅい) 【あざな】 季文(きぶん)
【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)
【生没】 ?~257年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第111回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・朱桓伝(しゅかんでん)』に付された「朱異伝」あり。
孫綝(そんりん)の怒りを買って処刑された将軍
父は朱桓だが、母は不詳。朱拠(しゅきょ)は従父(おじ)。
朱異は、父の朱桓が高位にあったことから郎(ろう)に任ぜられる。後に騎都尉(きとい)となり、父に代わって兵士を預かった。
241年、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の朱然(しゅぜん)が魏(ぎ)の樊城(はんじょう)を攻めた際、朱異は呂拠(りょきょ)とともに城外の敵陣を撃破する功を立て、帰還後に偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられた。
また、魏の廬江太守(ろこうたいしゅ)の文欽(ぶんきん)が六安(りくあん)に本営を構え、要路に多くの砦(とりで)を築いて呉から逃亡者を呼び入れたうえ、国境地帯で略奪を働くと、朱異は配下の2千人をひきいて7つの砦を急襲し、数百人の魏兵を斬る。
この功により、朱異は揚武将軍(ようぶしょうぐん)に昇進した。
250年、魏の文欽が呉への偽降を企て、朱異に宛てた密書を届けて迎えの軍勢を出すよう求める。
朱異は文欽が送ってきた密書を付けて上表し、これは本心からの申し入れだと思えないため、迎えの軍勢を出すべきでないと述べた。
それでも孫権(そんけん)は文欽の計に乗せられる危険性を考慮したうえで、あえて呂拠に2万の軍勢をひきいさせ、朱異と共同で北方の国境へ向かわせる。
結局、文欽が降伏してくることはなかった。
252年、朱異は鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)に昇進。
この年、魏の胡遵(こじゅん)や諸葛誕(しょかつたん)らが東興(とうこう)に侵攻してくると、朱異は水軍をもって浮橋を攻め、これを破壊することで魏軍を大敗させた。
257年、朱異は大都督(だいととく)・仮節(かせつ)となり、寿春(じゅしゅん)で挙兵した後に呉への投降を申し出た諸葛誕の救援に向かう。
朱異は3万の軍勢をもって安豊(あんぽう)に本営を置き、寿春の外から魏軍を牽制(けんせい)しようとする。
ところが、魏の兗州刺史(えんしゅうしし)の州泰(しゅうたい)に陽淵(ようえん)で敗れ、さらに追撃を受けて2千の死傷者を出した。
戦況を知った呉の大将軍(だいしょうぐん)の孫綝は大動員をかけ、自ら鑊里(かくり)まで本営を進める。
そこで朱異が命を受け、将軍の丁奉(ていほう)や黎斐(れいひ)らとともに5万の軍勢を指揮して魏軍を攻撃。この際、輜重(しちょう)は都陸(とりく)に留めた。
朱異は黎漿(れいしょう)に本営を定めると、将軍の任度(じんたく)や張震(ちょうしん)らを遣り、6千の決死隊を募らせる。
この決死隊は本営から西に6里のところに浮橋を架け、夜陰に紛れて対岸へ渡り、偃月塁(えんげつるい)を築いた。
しかし、魏の監軍(かんぐん)の石苞(せきほう)と州泰の攻撃を受けて敗れ、退却した呉軍は小高い場所に拠る。朱異は装甲を施した馬車を用意し、五木城(ごもくじょう)へ向かおうとした。
だが、またも石苞と州泰から攻撃され、敗れた朱異は軍勢を返そうとしたものの、魏の太山太守(たいざんたいしゅ)の胡烈(これつ)が奇策を用い、抜け道から都陸を襲撃。朱異の輜重はすべて燃えてしまった。
それでも孫綝は、新たに3万の軍勢を授けて決死の反撃を命ずるが、朱異はこの命令を拒否したため、ついに処刑された。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、孫権は朱異と戦について論じ合い、彼の考え方を評価したことがあり、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の朱拠に、朱異の人物はうわさ以上だと話したそうです。
朱異はそのうわさにたがわぬ逸材でしたが、諸葛誕の救援に失敗したことで報われない最期を迎えました。
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