【姓名】 是儀(しぎ) 【あざな】 子羽(しう)
【原籍】 北海国(ほっかいこく)営陵県(えいりょうけん)
【生没】 ?~?年(81歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・是儀伝』あり。
清廉さをもって職務にあたり、孫権(そんけん)から厚い信頼を得る
父母ともに不詳。
是儀はもとの姓を氏(し)といい、初め県吏となり、後に北海国の役所で働いた。
そのころ国相(こくしょう)の孔融(こうゆう)が、氏儀をからかって言った。
「『氏』の字は『民』の上部が欠けたものだから、『是』と改めるのがよいだろう」
そこで氏儀は、姓を「氏」から「是」に改めたのだという。
後に是儀は劉繇(りゅうよう)を頼って江東(こうとう)へ移住し、劉繇が孫策(そんさく)に敗れると会稽(かいけい)に移った。
200年、孫策が急死して弟の孫権が跡を継ぐと、是儀は手厚い招きを受けて仕える。そのうち信任を得て機密事項の処理にもあたるようになり、騎都尉(きとい)に任ぜられた。
219年、呂蒙(りょもう)が劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)を急襲する献策をした際、是儀は孫権から意見を求められ、全面的な賛意を示す。
是儀自身も関羽討伐に加わり、功によって忠義校尉(ちゅうぎこうい)に任ぜられた。
孫権が荊州(けいしゅう)を治めるようになり、本拠地を武昌(ぶしょう)に定めると、是儀は裨将軍(ひしょうぐん)に任ぜられ、後に都亭侯(とていこう)に封ぜられて侍中(じちゅう)を代行した。
さらに孫権は兵士を預けようとするが、是儀は軍事の才能がないことを理由に固辞した。
228年、是儀は皖(かん)に赴き、将軍の劉邵(りゅうしょう)の下で魏(ぎ)の曹休(そうきゅう)をおびき出すための計を立てる。
こうして陸遜(りくそん)らが曹休を石亭(せきてい)で大破すると、是儀も功により偏将軍(へんしょうぐん)に昇進した。
さらに是儀は朝廷に入って尚書(しょうしょ)の事務を取りまとめるとともに、様々な訴訟を処理し、帝族や貴族の子弟の教育にも携わった。
翌229年、孫権が帝位に即き、武昌から建業(けんぎょう)へ遷都。このとき皇太子の孫登(そんとう)が武昌に残ることになり、是儀はその補佐を命ぜられる。
孫登は是儀をよく敬い、何か行う前に彼の意見を聴いたという。やがて是儀は都郷侯(ときょうこう)に爵位が進んだ。
232年、是儀は孫登に付き従って建業へ戻り、侍中・中執法(ちゅうしっぽう)として諸官庁を取りまとめ、以前のように訴訟の処理にもあたった。
典校郎(てんこうろう)の呂壱(りょいつ)が、もとの江夏太守(こうかたいしゅ)の刁嘉(ちょうか)は国政を誹謗(ひぼう)していると誣告(ぶこく)したため、孫権は刁嘉を捕らえたうえ、関係者の取り調べを命ずる。
このときみな呂壱を恐れ、刁嘉が国政を誹謗するのを確かに聞いたと答えたが、是儀だけは聞いていないと答える。
是儀への取り調べは厳しさを増すも、彼はあくまで供述を変えなかったので、そのうち事実がわかると刁嘉ともども許された。
234年、蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が死去すると、是儀は使者として蜀へ遣わされ、両国の同盟関係の強化という重任をそつなくこなす。そして帰国後に尚書僕射(しょうしょぼくや)に任ぜられた。
241年、皇太子の孫登が薨去(こうきょ)。
翌242年1月、孫和(そんか)が新たな皇太子として立てられたものの、同年8月、孫権は孫霸(そんは)を魯王(ろおう)に封じ、ふたりの待遇を等しくする。
★孫登は孫権の長男。孫和は三男で孫霸は四男。
是儀は孫霸の後見役も兼ねることになったが、孫和と孫霸が同等に扱われている現状に危惧を抱き、上疏して孫霸を地方へ移すよう訴えた。
先に呂壱が宰相や重臣への弾劾を繰り返し、ひとりで何度も罪に問われる者まで出たときも、是儀だけは言いがかりをつけられることがなかった。
孫権は是儀を賛嘆して言ったという。
「人がみな是儀のようであったなら、刑法など無用になるのだが――」
★結局、呂壱は238年に誅殺された。
後に是儀は重い病を得る。彼は白木の柩(ひつぎ)に平服で葬り、葬儀も簡素に執り行うよう遺言し、81歳で死去(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、是儀は誠実な態度で職務に尽力する一方、自分の財産を殖やすことには興味がなく、誰の援助も受けずに何とか住める程度の家で暮らしていたそうです。
あるとき是儀の家の隣に、大きな屋敷を建てた者がいました。これをたまたま孫権が宮殿から望見し、誰の屋敷かと尋ねます。
側近は是儀のものだと答えましたが、孫権は彼の性格を考えて信じません。そこで改めて調べさせたところ、やはり是儀の屋敷ではなかったのだと。
また、是儀は服装や食事も質素でありながら、貧困者に援助していたので、家には蓄えがありません。
この話を聞いた孫権は是儀の家へ行幸し、普段の彼の粗末な食事をともに味わい、膳を前にしてため息をつきます。
そして俸禄や下賜品を増やし、封邑(ほうゆう)も加増するよう命じますが、是儀は重ねて辞退したのでした。
度を越えた倹約ぶりは評価できないこともあると思うのですけど、是儀の場合は生き方に筋が通っていて、すがすがしさを感じますね。
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