【姓名】 曹淑(そうしゅく) 【あざな】 ?
【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~232年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の娘、平原懿公主(へいげんいこうしゅ)
父は曹叡だが、母は不詳。
曹淑は早くに亡くなり、平原懿公主と諡(おくりな)された。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文昭甄皇后伝〈ぶんしょうしんこうごうでん〉)には、「曹叡は娘の曹淑が亡くなると、実母の甄氏(文昭甄皇后)の従孫にあたる亡き甄黄(しんこう)を選び、曹淑と合葬(冥婚)した」とあります。
さらに甄黄に列侯(れっこう)の爵位を追贈し、郭氏(かくし。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)の従弟の郭悳(かくとく。郭徳)を跡継ぎに立てて甄姓を継がせました。
甄悳(郭悳)は平原侯(へいげんこう)に封ぜられ、平原懿公主の爵位を継いだ形になっています。
また『三国志』(魏書・陳羣伝〈ちんぐんでん〉)には、曹淑の死を悲しむあまり、曹叡が礼の規範を逸脱した様子が記されていて、陳羣が上奏文を奉って諫めたものの、曹叡は聞き入れず、曹淑を成人の礼で弔ったうえ、朝廷を挙げて喪に服したのだとか。
これに加えて曹叡自ら葬列を見送ったり、陵に出向いたりもしたそう。陳羣の上奏文の中に「まだ1年にもならないのに……」という表現があるので、どうやら曹淑は乳児期に亡くなったらしい。
当時は8歳未満で亡くなった子については喪に服さなかったということなので、曹叡の暴走ぶりはかなりのもの。気持ちはわからないでもないですが……。
『三国志』(魏書・楊阜伝〈ようふでん〉)でもこの一件が採り上げられており、「曹叡が自ら曹淑の葬儀に臨もうとしたため、楊阜が上奏文を奉って諫めたが、曹叡は聞き入れなかった」とあります。
この「楊阜伝」には以下のようにもあります。
「曹叡の娘の淑(曹淑)は、生まれて1年も経たないうちに夭折(ようせつ)した。曹叡はその死を悼むこと甚だしく、曹淑に平原公主の位を追贈し、洛陽(らくよう)に廟(びょう)を建てたうえ南陵(なんりょう)に葬った」
これほど曹叡は曹淑を溺愛していたんですね。
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