滕氏(とうし) ※孫晧(そんこう)の妻、滕皇后(とうこうごう)

【姓名】 滕氏(とうし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 北海国(ほっかいこく)劇県(げきけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫晧滕夫人伝(そんこうとうふじんでん)』あり。

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呉(ご)の孫晧の正室、滕皇后(とうこうごう)

父は滕牧(とうぼく。滕密〈とうみつ〉)だが、母は不詳(何姓〈かせい〉か?)。滕胤(とういん)は同族。

256年、孫綝(そんりん)との争いに敗れた滕胤が一族皆殺しとなる。このとき滕牧は、滕胤との親戚関係が遠かったため死罪を許され、辺境の郡へ強制移住させられた。

258年に孫休(そんきゅう)が帝位に即くと、滕胤は大赦によって都へ戻り、五官中郎(ごかんちゅうろう)に任ぜられた。

この年、滕氏は烏程侯(うていこう)に封ぜられた孫晧の妃(きさき)として迎えられた。

264年7月、孫休が崩御(ほうぎょ)し、孫晧が帝位を継ぐ。

同年10月、滕氏が皇后に立てられる。

滕牧は衛将軍(えいしょうぐん)・録尚書事(ろくしょうしょじ)に任ぜられ、高密侯(こうみつこう)に封ぜられた。また、舅(おじ)の何洪(かこう)ら3人も列侯(れっこう)に封ぜられた。

やがて孫晧の暴虐ぶりがひどくなると、群臣は外戚の滕牧を推し立てて何度も諫めさせた。

このころには孫晧の滕氏への寵愛は衰えかかっており、滕牧の諫言にも機嫌を悪くしたが、いつも孫晧の母の何氏が口添えしたために事なきを得ていた。

これに加えて太史(たいし)の役人も、暦の運勢から見て皇后を代えてはならないと述べ、孫晧が巫覡(みこ)の巫術(ふじゅつ)を信じていたこともあり、滕皇后は廃位されずに済んだ。

こうした事情から、滕氏は升平宮(しょうへいきゅう。何氏)へのご機嫌伺いを欠かすことがなかったという。

その後、滕牧は宮廷を追われ、蒼梧郡(そうごぐん)への移住を命ぜられる。爵位こそ奪われなかったものの、実際には島流しだった。しかも、滕牧は蒼梧郡への道中で憂死してしまう。

滕氏にはお付きの官吏が名目的にそろっていて、皇后として朝賀や上表・上疏を受けたが、孫晧は寵愛する女性を次々と後宮へ入れたため、皇后の璽紱(じふつ。官印と組み紐〈ひも〉)を佩(お)びた者が少なからずいたという。

280年に呉が滅ぶと、滕氏は孫晧に付き従い、魏都(ぎと)の洛陽(らくよう)へ移った。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

滕氏は、孫晧に嫁いだ時点で波乱の生涯が決定づけられましたが、苦しい立場が長かったわりに、呉の滅亡時まで存命だったのですね。

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