劉元起(りゅうげんき)と劉徳然(りゅうとくぜん)について

こちらの謎は劉元起(りゅうげんき)と劉徳然(りゅうとくぜん)に関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の同族として『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)に名が見えるのが、この劉元起とその息子の劉徳然です。

「[劉備が]年十五、母使行楽、與同宗劉徳然、遼西(りょうせい)公孫瓚(こうそんさん)俱事故九江太守(きゅうこうたいしゅ)同郡盧植(ろしょく)。徳然父元起(劉元起)常資給先主(劉備)、與徳然等」
『三国志』(蜀書・先主伝)

劉備は15歳のとき(熹平〈きへい〉4〈175〉年ごろ)、母の意向を受けて遊学し、一族の劉徳然や遼西の公孫瓚ともども、同郡(涿郡〈たくぐん〉)出身でもとの九江太守である盧植の下で学んだことが書かれています。

また、その際の学資を劉徳然の父である劉元起が援助し、劉徳然と同じように扱っていたことも書かれています。

「元起妻曰、各自一家、何能常爾邪」

「元起曰、吾宗中有此兒、非常人也」
『三国志』(蜀書・先主伝)

夫が劉備の学資まで援助していることに妻は不満を述べますが、劉元起は劉備が一族中の俊才であると評価し、一向に気にしませんでした。劉備にとっては大恩人ですよね。

その後、中平(ちゅうへい)元(184)年に黄巾(こうきん)の乱が勃発した折、劉備は関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)らとともに義兵を挙げるわけですが、このあたりになると劉元起や劉徳然がまったく登場しないという、何だか不思議なことになっています。

管理人「かぶらがわ」より

史書には書かれていないだけで、実際は劉備の活動を支援していたのかもしれませんし、混乱の時代ですから亡くなってしまったのかもしれませんけど……。それならそれで、少しはどこかで触れてもらいたかったなと思います。

本当に劉元起と劉徳然には目立った活躍がなかった、というところかと考えていますが、史書はともかく、物語のほうで彼らを使う余地はナシでしょうか?

陰の存在ながら、実は劉備の知恵袋だったとか何とか……。やっぱりダメか。

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