司馬懿(しばい)の過失により張郃(ちょうこう)が戦死したことを受け、曹真(そうしん)は改めて魏(ぎ)の征西大都督(せいせいだいととく)に任ぜられる。
だが、いったん奪回した陳倉(ちんそう)に再び蜀軍(しょくぐん)が攻め寄せると、先の大雨で腐ってしまった魏軍の矢はまったく役に立たなかった。
第90話の展開とポイント
(01)諸葛亮(しょかつりょう)の軍営
諸葛亮が病に倒れ、魏延(ぎえん)と王平(おうへい)に全軍の指揮を任せる。さらに諸葛亮は、3日後の明け方に全軍を漢中(かんちゅう)へ撤退させると告げる。
★このシーンの冒頭で、魏延に「丞相(じょうしょう)はご病気か?」と尋ねられた兵士が、「はい。張苞(ちょうほう)どのがお亡くなりになったことをたいそう悲しまれ、重ねて昨日(さくじつ)雨に濡れたせいで伏せられているのです」と答えていた。前の第89話(09)で張郃から受けた傷がもとで、張苞が亡くなったらしい。
魏延は諸葛亮が、陳倉を含む攻め取ったすべての城を放棄するよう命じたことに不満を述べる。
しかし諸葛亮は考えを変えず、王平に2万の兵を預け、大軍の撤退後、陳倉道の入り口に伏兵を置くよう命ずる。曹真の追撃を防ぎ、3日したら撤退せよと。
(02)曹真の軍営
曹爽(そうそう)が曹真に、蜀軍が撤退を始め、キ山(きざん。ネ+阝。祁山)を通り漢中へ戻っていることを知らせる。
さらに曹爽は、はぐれた蜀兵を捕らえて拷問したところ、諸葛亮が危篤であることがわかったとも伝える。
曹爽は、蜀軍の撤退が計であるかを見極めるため、追撃せずに陳倉道へ行くだけにするよう勧める。そこで竈(かまど)の跡を数えれば、残している伏兵の数が推測できると。
曹真は命を下し、前軍を曹爽、後軍(こうぐん)を郭淮(かくわい)にそれぞれ任せ、自身は中軍となり、隴西(ろうせい)の各城の奪回にかかる。
(03)司馬懿の軍営
司馬昭(しばしょう)が司馬懿に、静姝(せいしゅ)から届けられた綿入れを手渡す。司馬懿は「曹爽の才は、あの父(曹真)を遥かにしのぐ」と言い、注意を促す。
(04)漢中 丞相府
王平が諸葛亮に5千の兵を失ったことを報告。魏の前軍は陳倉城へ入り、武都(ぶと)や陰平(いんぺい)などの城も次々と魏の手に落ちていることも伝える。
魏延は再び諸葛亮に、陳倉を魏に渡すことへの不満を述べる。
ここで諸葛亮は、今年は7日ほど雨季の到来が遅れているため、いったん降りだせば大雨になるとの見通しを話す。さらに陳倉が低地にあることを指摘し、戦機を待っているのだとほのめかす。
(05)陳倉
曹真が郭淮とともに到着し、曹爽らと合流。曹真は郭淮に戦功を報告する上奏文の起草を命ずるが、結局は司馬懿がこの役を引き受ける。
曹真は命を下し、司馬懿には陰平、郭淮には武都を、それぞれ守らせる。また孫礼(そんれい)には、陳倉の東にあるコクセキ城(?)を守らせた。
(06)司馬懿の軍営
大雨の中、司馬懿の命を受けて隴西の状況を探りに行った司馬昭が戻る。
司馬昭は司馬懿に、隴西の各城は蜀軍が去るときに焼き払われており、城壁の残骸があるのみだと伝える。ここでふたりは、諸葛亮が陳倉を破壊せず残した意図を見抜く。
(07)陳倉
曹真のもとに勅使が着き、曹叡の詔(みことのり)を伝える。曹真は部下に命じて詔の内容を100通ほど書き写させ、各軍営にも知らせる。
曹爽が曹真に、大雨により城内に水が溜まり、鎧(よろい)が腐食していることを知らせる。曹爽は陳倉を捨てて雍涼(ようりょう)へ撤退するよう勧めるが、曹真は聞き入れない。
曹真は曹叡に上奏し、洛陽(らくよう)・長安(ちょうあん)・許昌(きょしょう)などから鎧を送ってもらうよう頼むことにする。
(08)漢中 丞相府
諸葛亮が魏延と王平に、兵をひきいて陳倉へ向かうよう命ずる。
(09)行軍中の魏延
大雨の中、魏延が全速力での進軍を命じて陳倉へ急ぐ。
(10)陳倉
曹爽が曹真に、蜀軍が10里先まで迫っていることを知らせる。曹真は矢で応戦するよう命ずるが、先の大雨の影響を受けた矢は腐っていて役に立たなかった。
曹真のもとに、蜀軍が城門を破って侵入したとの知らせが届く。続いて曹爽が曹真に、蜀軍に東西の城門も破られたことを知らせ、蜀軍の鎧を着て南門から逃げるよう促す。
(11)退却中の曹真
曹真は城外へ逃げたものの、蜀軍に包囲され落馬。腰を痛めて動けなくなる。
曹真は敵に捕まるわけにはいかないとして、曹爽に自分を殺すよう頼むが、そこへ司馬懿が援軍をひきいて駆けつける。
司馬懿は曹真の姿を見て皮肉を言い、その背中を叩いてみせる。これを聴いた曹真は血を吐き、ほどなく亡くなる。
★どの時点で曹真が亡くなったのかイマイチはっきりしなかった。
(12)司馬懿の軍営
司馬懿は司馬昭を通じて副都督(ふくととく)に命じ、兵士たちに酒と肉を振る舞い休息を取らせる。
続いて司馬懿は郭淮に命じて上奏文を書かせ、陳倉を失った曹真を厳しく弾劾する。
司馬懿のもとに勅使が着き、曹叡の詔を伝える。司馬懿は大司馬(だいしば)・車騎大将軍(しゃきたいしょうぐん)・征西大都督として全軍の指揮を任され、天子(てんし)の剣(つるぎ)、錦の羽織、玉帯を賜った。
★車騎大将軍というのはどうなのだろうか? 何にでも大を付ければいいというものでもないと思うが……。
★車騎大将軍は范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(安帝紀〈あんていぎ〉)に用例があり、将軍号として通用することがわかった。(2021/9/21追記)
一方の曹真は傷を負って亡くなったため罪に問われず、曹爽がその柩(ひつぎ)を長安へ運び、先祖の墓に葬ることを許された。
★とりあえず曹真の柩を長安まで運んだのだろうが、いくらか引っかかる。曹真の父の曹邵(そうしょう。秦伯南〈しんはくなん〉)はもともと秦氏だったとはいえ、先祖の墓は長安ではなく譙県(しょうけん)にあったのでは?
(13)西暦231年 キ山の戦い
司馬懿と諸葛亮が大軍をひきいて対陣し、陣頭で言葉を交わす。
★ここで司馬懿が諸葛亮に、「そなたも私も50を過ぎた……」と言っていた。これは正史『三国志』の記述とも合う。231年の時点で179年生まれの司馬懿は53歳、181年生まれの諸葛亮は51歳になる。
ふたりは陣形で力比べをすることにし、まず司馬懿が混元一気(こんげんいっき)の陣を布(し)いてみせる。続いて諸葛亮も陣を布いてみせ、司馬懿に尋ねる。
管理人「かぶらがわ」より
曹真が亡くなり、再び全軍を掌握する司馬懿。次代の対決を予感させる曹爽と司馬昭。
再び陳倉を取り、司馬懿と陣形で競う諸葛亮。いつも陣を布いてみせるだけで勝敗が決まれば、戦わずに済むのにね……。
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