『三国志 Three Kingdoms』の考察 第91話「諸葛亮、軍を返す(しょかつりょう、ぐんをかえす)」

蜀軍(しょくぐん)の兵糧輸送にあたっていた苟安(こうあん)が、予定の期日から大幅に遅れて到着した。

諸葛亮(しょかつりょう)は怠慢を厳しくとがめたものの、死罪は免じて棒刑にとどめる。こうして苟安は帰途に就いたが、道中で魏軍(ぎぐん)に捕らえられてしまう。

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第91話の展開とポイント

(01)西暦231年 キ山(きざん。ネ+阝。祁山)の戦い

司馬懿(しばい)は、諸葛亮が布(し)いた陣を奇門八卦(きもんはっけ)の陣だと言い当てる。

すると諸葛亮は、もしこの陣を破ることができたら、自分は漢中(かんちゅう)へ引き揚げ、二度と出てこないと告げる。

司馬懿は戴陵(たいりょう)・張虎(ちょうこ)・楽綝(がくしん?)を呼び、諸葛亮が布いた陣の破り方を指示する。

ここで司馬懿は楽綝(がくりん。がくちん)を「ガクシン」と呼んでいたが、セリフの聴き取り違いかもしれないので断定はできず。楽綝は楽進(がくしん)の息子。正史『三国志』によると楽進は218年に亡くなっているので、この場面で出てくるはずはない。

司馬懿の指示は、まずは真東にある生門(せいもん)から突入。続いて西南の休門の方向に進み、そこから出る。そののち素早く北へ向かって開門より突入。それでこの陣は破れるというものだった。

3人は司馬懿の指示に従い兵をひきいて突入するが、諸葛亮が巧みに陣形を変化させたため陣から出られなくなる。

しばらくして諸葛亮から司馬懿への贈り物ということで、捕らえられた3人が送り帰されてくる。

司馬懿は腹を立て、司馬昭(しばしょう)の制止を聞かずに蜀軍への総攻撃を命ずる。

諸葛亮は山上から司馬懿の敗走を見届ける。

姜維(きょうい)は追撃を願い出るが、諸葛亮は許さず、自軍の兵糧が尽きたことを明かす。10日前に届くはずだった兵糧がいまだに届いていないとも。

(02)司馬懿の軍営

司馬懿は全軍を50里後退させて砦へ入るよう命じ、勝手な出陣を禁ずる。

(03)諸葛亮の軍営

兵糧の運搬にあたっていた苟安が、期日から15日も遅れて到着。

諸葛亮は怠慢を厳しくとがめるが、苟安が初めての任務であったことを考慮し、80回の棒刑にとどめる。苟安は李厳(りげん)の甥でもあった。

(04)帰途に就いた苟安

苟安が道中のモウ山(?)の小道で、孫礼(そんれい)ひきいる魏軍に捕らえられる。

(05)司馬懿の軍営

司馬懿は捕らえた苟安が李厳の甥だとわかると、命を助けたうえ一計を授ける。

(06)蜀漢(しょくかん) 成都(せいと)

苟安が李厳に、兵糧を届けるのが幾日か遅れたため、諸葛亮から80回の棒刑を受けたことを話す。

そして苟安は、帰りの道中で魏の役人から手に入れたという、司馬懿が曹叡(そうえい)に宛てた密書を手渡す。

この密書には、諸葛亮が司馬懿から大金を受け取り両軍撤退の密約を結び、渭水(いすい)を境に互いに侵犯しないことを約束した旨が書かれていた。

李豊(りほう)は司馬懿の離間の計を疑うが、李厳はその可能性があるとは認めながらも、この件を劉禅(りゅうぜん)に知らせることにする。

ここでは李厳が字幕通り成都にいたのかはっきりしなかった。ちなみに『三国志演義』(第100回)では、李厳は永安城(えいあんじょう)にいたことになっている。

また、苟安が退出したあと李厳が李豊に、「馬の用意を。成都に参る」と言っていたのも気になった。もし成都にいるなら、「成都に参る」などと改めて言うのはおかしいと思うので……。

(07)成都宮(せいときゅう)

李厳が劉禅に司馬懿の密書を差し出し、諸葛亮が許可なく密約を結んだことを問罪。劉禅は不安を煽(あお)られ、諸葛亮を呼び戻す詔(みことのり)を下した。

(08)諸葛亮の軍営

諸葛亮のもとに劉禅直筆の詔が届く。諸葛亮は、劉禅が理由として持ち出した呉軍(ごぐん)の侵攻は偽りだと見抜くが、自身は成都へ戻ることにする。

諸葛亮は魏延(ぎえん)と王平(おうへい)に全軍の指揮を任せ、各陣は動かずに撤退しないことを決めたうえ、自身は姜維と50人の兵を伴い成都へ向かう。

(09)成都

李豊のもとに、諸葛亮が10里ほどまで来ているとの知らせが届く。李豊は諸葛亮が姜維と数十人の兵しか連れていないと聞き、100里四方に軍勢がいないか探らせる。

(10)成都宮

諸葛亮が劉禅と会い、自分を呼び戻した理由を尋ねる。劉禅は返す言葉に詰まり、李厳に促されて司馬懿の密書を取り出し、諸葛亮に手渡す。

諸葛亮は司馬懿の計だと断じ、李厳に密書の入手経緯を尋ねる。

李厳は「都尉(とい)の苟安が、成都に戻る道中に魏の使いから取り上げたそうだ」と答えるが、肝心の苟安がこの場にいないことを追及される。

諸葛亮は姜維に命じ、劉禅に苟安が魏に捕らえられていたことなどを報告させる。

それでも李厳は判断を誤ったことを認めず、代わって李豊が諸葛亮の無実を証言。怒った李厳は李豊を平手打ちする。劉禅は諸葛亮に詫びたうえ、李厳の投獄を命ずる。

(11)成都 牢獄

諸葛亮が李厳を訪ね、蜀への思いを述べ合う。

ここで李厳が、諸葛亮への恨みはないが、国を挙げて北伐することには反対だと言っていた。

(12)成都宮

劉禅が皆に、李厳がキ山の軍営に送る兵糧を集められなかったため、呉が侵攻してきたとの偽情報を流したことを伝える。

そのうえで劉禅は、長年の功績と諸葛亮の執り成しを考慮して、李厳を庶民に降格し二度と登用しないとの処分にとどめる。

諸葛亮は劉禅から李厳の後任について尋ねられ、命を懸けて李豊を推挙。劉禅も起用を許す。

(13)成都

諸葛亮は李豊から、李厳が故郷の梓潼(しどう)に向かったことを聞く。

李厳の故郷が梓潼だというのはドラマのオリジナル設定か? 正史『三国志』によると李厳は南陽郡(なんようぐん)の出身。ここでの梓潼郡はあくまで流刑地の扱いになっていたが――。

ここで諸葛亮が李豊に、「忌憚(きたん)なく申さば、李厳がうらやましい。私も南陽に帰って、山中で余生を送りたいものだ……」と言っていた。

これも諸葛亮の場合、帰るとしても襄陽(じょうよう)郊外の隆中(りゅうちゅう)に帰るのでは? 南陽にこだわるのは『三国志演義』の踏襲だと思うが、話としてはイマイチかみ合わない。ただ、諸葛亮が隠棲(いんせい)していた場所に関する議論は現在も続いており、いまだ結論は出ていない。

続いて諸葛亮は李豊から、北伐中に劉禅が自分のために大きな屋敷を建てさせたことを聞く。諸葛亮は李豊に命じて屋敷を封鎖させ、洛陽(らくよう)を陥すまでは(屋敷に)入らないと告げる。

諸葛亮は姜維に、2日後にキ山の軍営へ戻ると伝え、準備を整えておくよう命ずる。

管理人「かぶらがわ」より

諸葛亮に馬鹿にされ、怒りの突撃を仕掛けるも敗走する司馬懿。

司馬懿の計にはまったことで李厳が失脚。ですが、李厳の考え方には見どころもありました。

劉備(りゅうび)への盲目的な忠誠より、蜀の民のことに思いを致した結果と言うべきではないでしょうか?

確かに蜀から打って出なくても、いずれは魏に滅ぼされていたかもしれません。それでもあくまで北伐にこだわる諸葛亮の考え方が、絶対的に正しいとも思えないのです。

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