街亭(がいてい)で蜀軍(しょくぐん)が大敗した後、諸葛亮(しょかつりょう)は苦心の末に漢中(かんちゅう)への帰還を果たす。
やがて街亭の敗戦を招いた馬謖(ばしょく)も戻ってくるが、諸葛亮は彼の才能を惜しみながらも、諸将の命乞いを聞き入れることなく処刑した。
第87話の展開とポイント
(01)西城(せいじょう) 城門
司馬懿(しばい)は城楼の前で箏(そう。琴)を弾く諸葛亮を見て、城外の山中に伏兵がいると考える。
司馬昭(しばしょう)は突入を勧めるが司馬懿は許さず、撤退を命ずる。
司馬懿が退くと諸葛亮は姜維(きょうい)に、すぐに兵糧をまとめて西城を発つと告げる。
(02)司馬懿の軍営
司馬昭が司馬懿に、民を捕らえて問いただしたところ、西城には老兵が1千ほどいただけだったことがわかったと伝える。司馬懿は「かの神のごとき妙計。父は到底かなわぬ」と嘆く。
(03)漢中 丞相府(じょうしょうふ)
魏延(ぎえん)が諸葛亮に、陽平関(ようへいかん)へ攻め寄せた徐晃軍(じょこうぐん)3万を撃退したことを伝える。
★このシーンは漢中の丞相府ということになっていたが、軍営にしか見えなかった。まぁ軍営であっても、丞相が政務を執る場は丞相府だと言えるが……。
★ここで魏延が諸葛亮に、「一斉に矢を放ち、敵数千を射抜きました。聞けば徐晃も矢を受け、死にかけていると……」とも言っていた。徐晃の死については前の第86話(12)を参照。
趙雲(ちょううん)と鄧芝(とうし)が無事に戻る。
鄧芝は諸葛亮に、趙雲が殿軍(しんがり)を務め、追撃してきた敵将3人を討ち取ったことを伝える。そのため敵軍は恐れをなして追撃不能となり、兵や武器を失うことなく引き揚げることができたのだとも。
諸葛亮は趙雲をたたえ、褒美として金500と絹1万を与えようとする。しかし趙雲は受け取りを辞退し、将来の功臣に与えてほしいと応ずる。
ほどなく馬謖と王平(おうへい)も戻ってくる。
諸葛亮は王平から街亭の敗戦の経緯を聴く。続いて馬謖を呼び入れ、街亭陥落の責任を問う。趙雲や魏延らが命乞いしたものの、諸葛亮は涙ながらに馬謖を死罪とした。
(04)蜀漢(しょくかん) 成都宮(せいときゅう)
劉禅(りゅうぜん)のもとに、諸葛亮から自身の罷免を求める上奏文が届く。
劉禅は李厳(りげん)の進言を容れ、諸葛亮を丞相から右将軍(ゆうしょうぐん)に降格したうえで、軍権はそのまま預けることにする。
(05)曹魏(そうぎ) 洛陽宮(らくようきゅう)
曹叡(そうえい)が司馬懿を召し、このたびの蜀軍撃退の功績をたたえる。
曹叡は司馬懿に自筆の詔(みことのり)を見せ、大司馬(だいしば)に任じて驃騎大将軍(ひょうきたいしょうぐん)を兼任させるとの意向を示す。
★また出てきた驃騎大将軍。驃騎将軍に大が付くのかという点は謎のまま。
★驃騎大将軍は范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』に数多くの用例があり、将軍号として通用することがわかった。(2016/2/18追記)
一方で曹叡は、この意向に百官が異を唱えているとも話し、西城で諸葛亮を取り逃がした件が問題になっていることを伝える。
司馬懿は曹叡から、自身に謀反の疑いまでかける者がいることを聞かされ、すべての官爵の辞退を申し出る。曹叡は司馬懿をしばらく休ませることにし、洛陽に新たな邸宅を与えた。
★ここで司馬懿が曹叡に、「故郷の宛城(えんじょう)に戻りたく存じます……」とも言っていた。司馬懿の出身地については先の第85話(16)を参照。
(06)司馬懿邸
静姝(せいしゅ)が司馬懿に羹(あつもの。野菜や肉を入れた熱い吸い物)を作って運んでくる。そこへ司馬昭がやってきて、屋敷の周囲に虎賁営(こほんえい)の兵士が置かれていることを知らせる。
司馬昭は軟禁されたのだと腹を立て、曹叡への不満を口にする。司馬懿は司馬昭を平手打ちし、それ以上言ったら(曹叡の御前に)引きずり出すと告げる。
★ここで司馬昭が司馬懿に、「父上に初めて手を上げられました」と言っていた。
司馬懿は「焦らず過ごせばよい」と言い、遠からず朝廷から迎えが来る、と吐き捨てる。
(07)洛陽宮
司馬懿が曹叡に召され、玉階(天子〈てんし〉の宮殿につながる階段)を上って参内する。このとき司馬懿は付き添いの内侍(ないし)に、自身の体力の衰えを強く印象づけてみせた。
★このシーンの冒頭にナレーションが入っていた。「この言葉はまもなく現実のものとなった。大都督(だいととく)曹休(そうきゅう)が鄱陽太守(はようたいしゅ)周魴(しゅうほう)の偽装投降の計にかかり、石亭(せきてい)にて陸遜(りくそん)に大敗し、しばらくして世を去ったのである」と。
曹叡は司馬懿に、曹休が敗れて水軍の半分を失ったことを話す。曹叡は自ら50万の兵をひきいて呉(ご)を討ちたいと言い、司馬懿の意見を求める。
司馬懿は、呉の陸遜より蜀の諸葛亮のほうが大患だと述べ、いずれ蜀は再び攻めてくるとも話す。
司馬懿は陳倉(ちんそう)の重要性を説きながらも、老いて病気がちであることを理由に、自身への復帰要請をかわす。
そして曹叡から守将を推挙するよう言われると、司馬懿は曹真(そうしん)やその息子の曹爽(そうそう)の名を挙げた後、郝昭(かくしょう)を推薦する。
★ここで司馬懿が曹叡に、「大将軍(だいしょうぐん。曹真)の長子、コウ将軍(後将軍?)の曹爽どのを」と言っていた。
曹叡は司馬懿の推薦を容れ、郝昭を征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任じて陳倉の守りにあたらせる。
(08)漢中 右将軍府
魏延が諸葛亮に、この半年のうちに蜀で15万の新兵を募り、漢中も兵が12万に増え、2万の馬に武器や兵糧も整い、各陣営が充実していることを伝える。諸葛亮は魏延に徴兵を任せ、武器や兵糧を優先的に補給するよう言い渡す。
続いて蒋琬(しょうえん)が諸葛亮に、この秋は豊作で収穫が例年より2~3割多かったため、李厳の指示で50万石(ごく)の兵糧を斜谷(やこく)へ送ったことを報告する。
また蒋琬は諸葛亮に魏呉の戦況を尋ねられ、樊城(はんじょう)からの知らせとして、魏の大都督の曹休が偽装投降の計により石亭一帯で陸遜に大敗し、水軍の多くを失ったことを伝える。曹休がこの直後に憤死したそうだとも、併せて伝えた。
★この時期に樊城が魏領だったのか呉領だったのか、イマイチはっきりせず。
さらに魏延が諸葛亮に、雍涼(ようりょう)の守りを固めているのは曹真で、征西大将軍に起用された郝昭が陳倉を守っていることを伝える。
言い終えた魏延は、第2次の北伐では陳倉から進軍する考えなのか尋ねる。
★ここで魏延が諸葛亮に、郝昭に関する情報も伝えていた。郝昭はあざなを伯道(はくどう)といい、太原郡(たいげんぐん)の出身で30歳前後。もとは徐晃の部下で、後に司馬懿に付いたのだと。
管理人「かぶらがわ」より
箏をもって司馬懿の大軍を退けた諸葛亮。次代のホープと目されていた馬謖の斬首。ただでさえ蜀は人材不足なのに……。
このドラマや『三国志演義』(第95回)では、馬謖は王平とともに2万5千の兵をひきいて街亭へ向かったことになっています。正史『三国志』では「大軍」とありましたが、2万5千という数には言及がありません。
でも、この兵力で魏の大軍を防ぎきることができたのでしょうか? 諸葛亮が預けた兵も少なすぎたのでは?
確かに馬謖の失敗ですが、関羽(かんう)の華容道(かようどう。ただしこれは創作の話)や劉備(りゅうび)の東征失敗などに比べれば、致命的な損失とまでは言えない。
それほど馬謖が有能だったのなら、何とか助命する手立てはなかったのか? いろいろ勘ぐりたくなるところです。
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