227年、馬謖(ばしょく)の失態により、街亭(がいてい)で魏軍(ぎぐん)に大破されてしまった蜀軍(しょくぐん)。
諸葛亮(しょかつりょう)はわずかな兵士とともに西城(せいじょう)に向かい、兵糧を運び出して全軍の撤退に備えようとしたが、ここへ司馬懿(しばい)ひきいる数万の魏軍が押し寄せてくる。
第86話の展開とポイント
(01)宛城(えんじょう)
司馬懿の命を受け、コウジョウ将軍(?)のゴテイ(?)が歩兵3万5千、リグン将軍(?)のソウリツム(?)が兵馬2万を、それぞれひきいて駆けつける。
★ここで出てきたふたりの将軍は、セリフを繰り返し聴いてもよくわからなかった。
続いて魏興太守(ぎこうたいしゅ)の申儀(しんぎ)も司馬懿を訪ね、新城(しんじょう)の孟達(もうたつ)が再び蜀に寝返ったことを知らせる。
そして、申儀の友人で孟達の腹心でもある李輔(りほ)から手に入れたという、孟達が諸葛亮に送った書状の写しも手渡す。
司馬懿は申儀に、朝廷には内密にしたうえ自ら鉄騎兵をひきいて新城へ向かい、孟達を討つと告げる。
(02)新城の近郊
司馬懿が申儀らとともに軍勢をひきいて到着。孟達が警戒していないことを確認する。
司馬師(しばし)が司馬懿に孟達の使者を捕らえたことを知らせる。
捕らえた使者は孟達の使者ではなく、諸葛亮が孟達のもとへ遣わした使者だったものの、司馬懿はその使者から諸葛亮の書状を手に入れる。
司馬懿は孟達のもとに使者を遣わし、曹叡(そうえい)に目通りするため洛陽(らくよう)へ向かう途中、新城を通りかかったと伝えさせる。また、息子ふたりを連れているが護衛は数人だとも伝え、孟達を城外に誘い出す。
(03)洛陽宮(らくようきゅう)
司馬懿が申儀とともに孟達の首を携えて参内。曹叡に孟達を斬首するに至った経緯を説明する。
曹叡は申儀を冀州刺史(きしゅうしし)に任じたうえ宛城侯(えんじょうこう)に封ずる。さらに司馬懿には剣を授け、洛陽と長安(ちょうあん)の軍の指揮権を預ける。
★申儀について『三国志演義』(第94回)では官職が引き上げられたことが記されているのみで、具体的な官爵には触れていない。いずれにせよ宛城侯というのはヘンで、もし使うなら宛侯とすべきだろう。
司馬懿は曹叡から全兵馬をひきいて諸葛亮を討つよう命ぜられ、今後はいかなる機密であっても事後報告で構わないという特権が認められる。
(04)司馬懿の軍営
司馬懿が諸将を集めて戦況を分析。ここで司馬懿は、張郃(ちょうこう)に2万の兵で街亭へ向かうよう命じ、自身も大軍をひきいて後ろに続くと告げる。
(05)諸葛亮の軍営
諸葛亮のもとに、司馬懿が征西大都督(せいせいだいととく)として中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)の兵馬を掌握したとの知らせが届く。
続いて諸葛亮のもとに、孟達が謀反の企みを司馬懿に知られて斬首され、その部下も全員投降したとの知らせも届く。
さらに続いて諸葛亮のもとに、先鋒大将軍(せんぽうたいしょうぐん)に任ぜられた張郃が48万の大軍とともに、西へ向かっているとの知らせも届く。
諸葛亮は諸将に、司馬懿の狙いが街亭であるとの見解を述べて守将を募る。諸葛亮は出陣を熱望した馬謖(ばしょく)を起用し2万5千の精鋭を預け、副将に王平(おうへい)を付ける。
★王平は既出だが、字幕による紹介があったのは初めてかも?
諸葛亮は馬謖と王平に、五差路に陣を布(し)き、決して魏軍を通さないよう命ずる。そして駐屯した後、ただちに詳しい地図を描いて届けるよう付け加える。
馬謖と王平が退出した後、諸葛亮は高翔(こうしょう)に1万の兵を預け、街亭の北東にある列柳城(れつりゅうじょう)に駐屯するよう命ずる。これは街亭で危急の事態が起きた場合に備えるためのものだった。
高翔が退出した後、諸葛亮は、魏延(ぎえん)にも兵馬をひきいて街亭に駐屯するよう命ずる。魏延は自身が先鋒将軍に任ぜられていることに触れ、馬謖の加勢役となることへの不満を述べる。
諸葛亮は、街亭とその背後にある陽平関(ようへいかん)の重要性を説き、後日の長安攻めの際には大軍を預けると言い、魏延を納得させた。
魏延が退出した後、諸葛亮は趙雲(ちょううん)と鄧芝(とうし)に箕谷(きこく)への進撃を命ずる。司馬懿の軍勢に遭遇したときの対応は趙雲に一任し、ただ司馬懿を脅すだけでよいと伝える。
(06)街亭
馬謖と王平が2万5千の軍勢をひきいて到着。馬謖は王平の諫言を退け、山上に陣を構える。やむなく王平は5千の兵を分けてもらい、山のふもとに陣を築く。
司馬昭(しばしょう)が蜀軍の偵察に出向く。
(07)司馬懿の軍営
司馬昭が司馬懿に、すでに蜀軍が街亭の要道を占領していることを伝える。
その一方、五差路には軍営がひとつしかなく、兵も5千に満たないこと。そして蜀軍の本営は街亭の東のセキ山(?)にあり、大軍で包囲すれば奪えそうだとも話す。
司馬懿は司馬昭に命じ、全軍で街亭の蜀軍を包囲させる。
(08)街亭
司馬懿が軍勢をひきいて到着。自ら敵の布陣を確認し、馬謖を「名ばかりの将軍」と評する。
司馬懿は張郃に、1万の兵をひきいてふもとの王平の陣を攻めるよう命ずる。また、自身は大軍でセキ山の馬謖を包囲する。
(09)西暦227年 街亭の戦い
馬謖のもとに、およそ10万の魏軍に山を包囲されたとの知らせが届く。馬謖は放っておくよう命じ、正午を過ぎて疲れが溜まったころ、一気呵成(いっきかせい)に攻めると告げる。
(10)諸葛亮の軍営
諸葛亮のもとに王平が描いた街亭の地図が届く。諸葛亮は馬謖が逃げ場のない孤山に本営を築いたことに激怒し、蜀軍の敗北を悟る。
諸葛亮が姜維(きょうい)に軍令を伝えさせる。
第一に関興(かんこう)と張苞(ちょうほう)には、3千の兵をひきいて武功(ぶこう)の小道を進ませる。敵に遭遇しても太鼓を叩いて鬨(とき)の声を上げるだけでよい。敵軍の撤退後、陽平関で魏延と合流せよと。
第二に張翼(ちょうよく)は剣閣(けんかく)の道を補修し、全軍が漢中(かんちゅう)へ退く準備をせよと。
第三に趙雲を陣に呼び戻す。状況は危険極まりないと。
(11)馬謖の軍営
魏軍に水源を断たれ、山上の蜀軍が渇きに苦しむ。そこへ魏軍が攻撃を仕掛けてくる。
(12)諸葛亮の軍営
姜維が諸葛亮に、司馬懿が15万の軍勢をひきいて街亭へ行き、兵を3つに分け、張郃に街亭を包囲させ、徐晃(じょこう)に陽平関を攻撃させ、司馬昭に趙雲と戦わせていることを知らせる。
★徐晃について吉川『三国志』(第284話)や『三国志演義』(第94回)では、司馬懿の先鋒として新城の孟達を攻めた際、孟達の矢を額に受けたことがもとで戦死したとあった。なお、これは228年1月の出来事という設定。
ちなみに正史『三国志』によると、徐晃は前年の227年に亡くなっており、壮侯(そうこう)と諡(おくりな)されている。なので、徐晃が228年1月の孟達攻めに加わったというのは創作である。
とはいえ司馬懿が孟達を斬ったのは、正史『三国志』にも228年1月のことだとある。このあたり、すべてが創作でないところに『三国志演義』の巧さが感じられる。
諸葛亮は姜維に、南安(なんあん)・天水(てんすい)・安定(あんてい)の3郡に使者を遣わし、すべての民を夜中のうちに漢中へ移すよう命ずる。自身は夜明けとともに5千の精鋭をひきいて出陣するとも告げる。
しかし姜維は、残っている武装兵は300で、老兵と病人を合わせても2千ほどだと応ずる。それでも諸葛亮は全員を召集するよう命じ、西城へ向かうと告げる。これは西城の兵糧10万石(ごく)を運び出し、全軍の撤退に備えるためだった。
(13)西城
諸葛亮と姜維が到着。城内の民も動員して兵糧の運び出しを急がせる。そこへ諸葛亮のもとに、司馬懿ひきいる数万の魏軍が攻め寄せてきたとの知らせが届く。
諸葛亮は姜維に命令を伝えさせる。旗をすべて隠して城門を開け、民を装った数名の兵士を各門に置き、街道を掃除させよというもの。むやみに出入りせず、大声を出してはならないとも。
(14)西城の近郊
司馬懿が軍勢をひきいて西城へ迫る。
(15)西城 城門
諸葛亮が城楼の前で箏(そう。琴)を弾き、司馬懿の軍勢を待ち受ける。
管理人「かぶらがわ」より
電撃作戦をもって孟達を仕留める司馬懿。才能を自負するあまり、街亭で致命的なヘマをやらかす馬謖。
このドラマでは登場人物の数に制約があるようです。申儀は出るが、申耽(しんたん)は出ない、みたいな――。
ただ、そういうことまで考慮して話をつないでいくのは難しそうなので、よく考えてあるとは思います。
許褚(きょちょ)は出るが典韋(てんい)は出ない。黄忠(こうちゅう)は出るが厳顔(げんがん)は出ない。まぁ、あれもこれもと望むのは、特に映像作品では無理がありますね。
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