『三国志 Three Kingdoms』の考察 第21話「吉平、毒を盛る(きっぺい、どくをもる)」

董承(とうしょう)は太医(たいい)の吉平(きっぺい)と密談し、献帝(けんてい)をないがしろにする曹操(そうそう)の毒殺をもくろむ。

その後、曹操は頭痛を訴えて吉平を呼ぶ。吉平は毒入りの薬を煎じ、曹操に飲むよう勧めるが――。

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第21話の展開とポイント

(01)行軍中の劉備(りゅうび)

張遼(ちょうりょう)と許褚(きょちょ)が、徐州(じょしゅう)を目指して行軍中の劉備に追いつく。張遼は曹操の命令を伝えるが、劉備は許都(きょと)へ戻ろうとしない。

(02)許都 丞相府(じょうしょうふ)

曹操が張遼と許褚から、劉備が戻らないとの報告を受ける。

(03)袁術(えんじゅつ)を追う劉備

劉備が、とある廟(びょう)に袁術を追い詰める。

劉備は趙雲(ちょううん)に書簡を届けさせて袁術に自決を勧め、許都への連行を避けようとする。劉備の書簡を読んだ後、袁術は自害して果てる。

(04)許都 丞相府

朱霊(しゅれい)と路招(ろしょう)が許都に戻り、劉備から預けられた伝国璽(でんこくじ)を曹操に差し出す。

しかし、ひきいていった5万の兵馬を劉備に奪われたとも報告すると、曹操は激怒し、ふたりの処刑を命ずる。

曹操は曹仁(そうじん)に命じ、徐州の車冑(しゃちゅう)に兵3万を与えて守りを固めさせる。

そこへ、すでに徐州が劉備に占拠され、車冑は関羽(かんう)に討たれたとの報告が届く。これを聞き、曹操は倒れてしまう。

伏せって3日目、曹操はそばにいた曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)に声をかける。また、吉平から自身の病状について話を聴く。

ここで曹操から「最近、良い詩文を作ったか?」と尋ねられた曹植が、「ケイコウや孔融(こうゆう)らと詩を唱和しました」と答えていた。ケイコウは嵆康を想定していると思うが、だとしたら時代が合わない。この時点(199年)ではあり得ない話。ふたりの生没年は嵆康が223~262年、曹植が192~232年である。

また、曹丕は187年生まれ、曹植は192年生まれなので、199年の時点では13歳と8歳。このドラマのふたりは史実より年齢が高めに設定されており、注意を要する。

(05)徐州

劉備が糜芳(びぼう)に書簡を託し、冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)のもとに遣わす。この書簡は袁紹に献帝の血書のことを伝え、曹操討伐の挙兵を要請するものだった。

(06)冀州

袁紹配下の郭図(かくと)と田豊(でんぽう)の意見が対立。郭図はただちに曹操を討伐すべきだと述べ、田豊は兵を休ませ国力を回復すべきだと述べる。さらに許攸(きょゆう)も出兵を支持したため、袁紹は曹操討伐を決意する。

袁紹は軍師に許攸と郭図、大将に顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)を指名し、騎兵15万と歩兵15万で黎陽(れいよう)へ進軍するよう命ずる。また、陳琳(ちんりん)には檄文(げきぶん)の起草を命ずる。

陳琳が檄文を作るシーン。この中に「司空(しくう)曹操が祖父曹騰(そうとう)はその昔、宮廷の宦官(かんがん)なり」というフレーズがあった。

ドラマではこの時点(199年)で曹操が丞相に就任しており、ここを司空とすると話が合わなくなる。なお、正史『三国志』では曹操の丞相就任は208年のことで、劉表(りゅうひょう)討伐の南征に取りかかる直前だった。

(07)丞相府

曹操が、自身だけでなく父祖まで批判した陳琳の檄文を読み、「名文だ」と評する。

曹操は文武諸官を集め、袁紹への対応を協議する。

和睦すべきとの意見が出た後、荀彧(じゅんいく)が、袁紹の10敗と曹操の10勝という持論を展開。曹操は5日後に自ら20万の軍勢をひきい、袁紹を討つべく出陣すると宣言する。

(08)許宮(きょきゅう) 内宮(ないくう)

董承が献帝に、劉備の徐州奪還と袁紹が曹操討伐に起ち上がったことを伝える。また、吉平を用いた計についても打ち明ける。

内宮について、字幕では「ないぐう」とあった。基本的にはドラマのルビを使うようにしているが、ここは「ないくう」としておく。

(09)車騎将軍府(しゃきしょうぐんふ)

董承と吉平が曹操を毒殺するべく密談。しかし、ふたりの話は下僕(慶童〈けいどう〉)に盗み聞きされていた。

この下僕が雲英(うんえい。董承の妾〈めかけ〉)と密会しているところを家人に見つかる。怒った董承は、翌朝を待って下僕と雲英を処刑するよう命ずる。ところが、閉じ込められた下僕は両手を縛っていた縄を焼き切り――。

(10)丞相府

曹操が頭痛を装い吉平を呼ぶ。駆けつけた吉平は、薬を煎じる際に密かに毒を盛る。

ここで曹操から「太医(たいい)となって何年だ?」と尋ねられた吉平が、「初平(しょへい)2年に宮中の太医となり、今年でもう13年になります」と答えていた。

初平2年は西暦191年で、それから太医を務めて13年目だと言ったことになる。単純に考えても(191+13で)200年代に突入してしまうが、今は何年の設定なのだろう? つじつまが合うように設定を変えるか、年代が特定されるようなセリフを極力使わないようにするか、どちらかにすべきだったと思う。

さらに曹操が吉平に、初平2年の3月8日に董卓(とうたく)暗殺に失敗したことを話していたが、この設定もよくわからない。吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』とも、董卓の死を初平3(192)年の出来事としている。

曹操が話したのは、それ(董卓の死)以前に董卓暗殺に失敗したときのことではある。とはいえ、曹操が洛陽(らくよう)から逃走し、陳留郡(ちんりゅうぐん)で旗揚げしたのは189年12月。いずれにせよ『三国志演義』や正史『三国志』とも合わない。

曹操は吉平に薬を先に試すよう言った後、捕らえさせる。吉平が共謀者を明かさなかったため、曹操は拷問にかけるよう命ずる。

曹操が宴と称し、董承を丞相府に招く。そして、その席へ拷問にかけた吉平を連れてくるよう命ずる。

管理人「かぶらがわ」より

袁術の死と劉備の徐州獲り。曹操と袁紹の激突の時が迫ってきました。

吉平が曹操と対峙(たいじ)するシーンは見どころでしたが、セリフの内容がテキトーだったのはなぜ?

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