『三国志 Three Kingdoms』の考察 第68話「単刀会(たんとうかい)」

劉備(りゅうび)が益州(えきしゅう)を領したことが伝わると、さっそく孫権(そんけん)は、かねてからの懸案である荊州(けいしゅう)返還問題の決着を迫る。

劉備から荊州の軍政を委ねられていた関羽(かんう)は、この件で孫権配下の魯粛(ろしゅく)との会談に臨むが、あえて周倉(しゅうそう)ひとりを随行させた。

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第68話の展開とポイント

(01)益州 成都(せいと)

諸葛瑾(しょかつきん)が諸葛亮(しょかつりょう)を訪ね、孫権が一族38人を投獄し、荊州の返還を求めに行くよう命じたことを話す。諸葛亮は劉備に頼んでみると請け合う。

劉備が諸葛瑾と会い、荊州返還の第一段階として、長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡の返還を決める。また、漢中(かんちゅう)を取った後、残りの郡もすべて返還するとも述べた。

(02)荊州 襄陽(じょうよう)

諸葛瑾が関羽を訪ね、3郡の返還を命ずる劉備の軍令状を見せる。しかし関羽は拒否し、諸葛瑾を追い返す。

その一方、関羽は関平(かんぺい)に命じ、水軍を派遣して沿岸に陣を構えさせ、呉(ご)が3郡を奪いに来るのを防がせる。さらに、呉の役人が長沙に赴任しようとしたらみな追い返すように、とも付け加えた。

ここまで何度か採り上げたが、この時点でも孫権の勢力を「呉」と呼ぶのは早すぎると思う。

(03)揚州(ようしゅう) 柴桑(さいそう)

孫権の命を受けたフウタイシ(?)が零陵に赴任しようとしたが、江上で関羽の軍勢に追い返されて戻る。

「フウ」は姓(馮?)だろうが、「タイシ」は大使か? それとも「フウ太守(ふうたいしゅ)」と言っているのか? ここはうまく聞き取れなかった。

呂蒙(りょもう)が賈華(かか)を連れ、関羽に会うため荊州へ向かう。

(04)襄陽

関羽は呂蒙では相手にならないと退け、魯粛を連れてくるように言う。

呂蒙は関羽に、魯粛は病が重いため遠出はできないと答える。すると関羽は、自分が陸口(りくこう)の河岸まで出向くと伝える。

(05)陸口

魯粛が病を押して軍営に到着し、呂蒙に水軍を20里後退させるよう命ずる。その夜、呂蒙はこれまでの恩義に感謝し、魯粛の足を洗う。

翌日、関羽は周倉ひとりを伴い魯粛を訪ねる。

酒宴の席で魯粛は、関羽に改めて荊州3郡の返還を求める。

ここで周倉が「天下の土地は徳ある者の手に。呉の独り占めはならぬ」と言い、関羽は彼をその場から下がらせる。

そのあと魯粛が立ち上がり、関羽に伏兵がいることを耳打ちし、自分を盾にして逃げるよう促す。関羽は魯粛の態度に感じ入り、荊州3郡の返還を認める。

魯粛は関羽を見送った後で倒れ、危篤に陥る。

魯粛は呂蒙に、返還が決まった3郡へ最初は兵を派遣せず、文官を数人だけ赴任させるよう伝える。

魯粛と呂蒙が話しているところへ、曹操(そうそう)が20万の精鋭をひきいて漢中を攻め取ったとの知らせが届く。張魯(ちょうろ)は投降し、漢中12郡がすべて曹操の手中に収まったとも。

漢中には12郡もない。12県と言いたかったのかも? また、このあたりの戦いの様子がバッサリ切られていたのは残念。

魯粛は呂蒙に、曹操と劉備の勢力を見極めたうえ、状況に応じて手を組む相手を変えるよう伝える。こうして魯粛は呂蒙に後事を託すと、孫権への書簡をしたためようとしつつ亡くなる。

(06)許都(きょと)

百官が入朝したあと曹操が現れる。

曹操・荀彧(じゅんいく)・程昱(ていいく)・許褚(きょちょ)など、みないっそうの老け設定になっていた。

ここでの曹操は剣を帯び、履物のまま入朝。これに加え、名乗ることも無用という待遇になっていた。

ひとりの文官が献帝(けんてい)に上奏し、曹操の功績をたたえ、王に封じて九錫(きゅうせき)を授けるよう請願する。

続けてふたりが賛成する意見を述べたものの、曹操は献帝に、爵位の昇格を望まないと伝える。

ここで荀彧が意見を述べ、曹操を王に封ずることに反対する。これに程昱が反論し、曹操を王に封ずることに賛成する。

百官が献帝に曹操を魏王(ぎおう)に封ずるよう懇願する中、ひとり荀彧は嘆きながら退出。

献帝は董昭(とうしょう)に詔(みことのり)の起草を命じ、丞相(じょうしょう)の曹操を魏王とし、12旒(りゅう)の冕冠(べんかん)を授けることを決める。

また、乗り物に6頭立ての金根車(きんこんしゃ)を用い、朝廷への出入りには天子(てんし。献帝)と同じ装束と儀仗(ぎじょう)を許す。

ここで名が出た「トウショウ」は「董承」ではなく「董昭」でいいはず。

先の第22話(01)を改めて観ると、曹操のもとに董承の府で見つかったという血判状が届けられた後、董承が「フン」と言って曹操の前から立ち去っていた。このあと董承は処刑されたということだろう。董承の娘である董貴妃(とうきひ)の縊殺(いさつ)シーンはあったが、董承の最期はわかりにくかったかも。

朝廷から退出した後、曹植(そうしょく)がショウガ(頌歌?)の会に参加するため、近道となる白馬門(はくばもん。天子専用の門)から城外へ出ようとする。

(07)白馬門

曹植が守将に迫り城門を開けさせたところ、荀彧が現れて制止する。

管理人「かぶらがわ」より

いったんは荊州3郡の返還を拒否するも、魯粛の態度を見て考えを改めた関羽。

曹操の配下では数少ない漢室(かんしつ)護持者の荀彧。諫言ぶりが痛々しかった。

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