『三国志 Three Kingdoms』の考察 第85話「罵って王朗を殺す(ののしっておうろうをころす)」

キ山(きざん。ネ+阝。祁山)において堂々と対峙(たいじ)した魏蜀(ぎしょく)の両軍。

魏の王朗(おうろう)が陣頭に出て持論を述べると、蜀の諸葛亮(しょかつりょう)も痛烈な反論を展開。ほどなく王朗は血を吐いて落馬する。

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第85話の展開とポイント

(01)曹魏(そうぎ) 洛陽宮(らくようきゅう)

曹叡(そうえい)が皆に、諸葛亮が北伐を開始し、すでに先鋒の趙雲(ちょううん)が魏の領内へ侵入していることを告げ、対抗策を問う。

曹叡は王朗の進言を退け、名乗りを上げた夏侯楙(かこうぼう)を征西大都督(せいせいだいととく)に任じ、関西軍(かんせいぐん)20万を預けて蜀軍の撃退を命ずる。

(02)行軍中の諸葛亮

諸葛亮の道中に先回りする形で、孫権(そんけん)から100甕(かめ)の酒と100頭の駿馬(しゅんめ)が届けられる。

諸葛亮のもとに、先行している趙雲から進路の指示を求める使者が着く。

諸葛亮は趙雲に、兵をふた手に分け、ひと手は斜谷(やこく)へ向かい、郿(び)を攻めると見せかける。もうひと手はキ山から隴西(ろうせい)へ行き、足場を固めてから長安(ちょうあん)を攻め落とすよう伝えさせる。

このとき魏延(ぎえん)が諸葛亮に、5千の精鋭をひきいて秦嶺(しんれい)を越え、子午谷(しごこく)を通って長安を奇襲したいと願い出る。しかし諸葛亮は全滅する危険があると指摘。危うい賭けはできないとして許可しなかった。

(03)諸葛亮の軍営

馬謖(ばしょく)が諸葛亮に間諜(かんちょう)からの報告として、曹叡が夏侯楙を大都督に任じ、西涼兵(せいりょうへい)を出陣させたそうだと伝える。

また、司馬懿(しばい)が洛陽を追われ、雍涼都督(ようりょうととく)となったことも併せて伝える。

諸葛亮は馬謖に命じ、司馬懿に関する流言を広めさせる。

(04)雍州(ようしゅう) 司馬懿の軍営

司馬懿が司馬昭(しばしょう)に、密かに募った兵をふた月のうちに3万まで増やすよう命ずる。これは、斜谷から郿城を攻めるとしている蜀軍が囮(おとり)と見抜いてのことだった。

(05)洛陽

街中に司馬懿の名で謀反を公言する張り紙がされる。

(06)洛陽宮

曹休(そうきゅう)が曹叡に司馬懿の処罰を求める。曹叡は諸葛亮の離間の計かもしれないと言い、自ら虎賁軍(こほんぐん)をひきいて雍涼へ向かうことにする。

(07)雍州 司馬懿の軍営

司馬懿のもとに、曹叡が虎賁軍をひきいて10里先まで来ているとの知らせが届く。司馬懿は司馬昭ひとりを伴い、曹叡のもとに出向く。

(08)曹叡の軍営

曹叡は、許可なく3万余りの兵を募ったとして司馬懿を問責する。

司馬懿は、兵を募ったのは諸葛亮の侵攻に対抗するためだと述べたうえ、斜谷道を進む蜀軍は陽動作戦で、諸葛亮は必ずキ山から長安を目指すと首を懸けて断言。

だが曹叡は司馬懿の官職をすべて解き、故郷へ戻るよう命ずる。軍の指揮権は曹休が引き継ぐことになった。

(09)南安(なんあん)

蜀軍が魏の南安城を攻略。

(10)洛陽宮

曹叡が次々に届けられる敗報に激怒する。夏侯楙は兵を失ったうえ、趙雲に生け捕りにされたという。

さらに曹叡は皆に、斜谷道の蜀軍は囮で、諸葛亮の大軍はキ山を出て長安へ向かっていることを話す。天水(てんすい)の姜維(きょうい)は蜀に降り、南安・郿城・上邽(じょうけい)・天水が諸葛亮の手に落ち、曹休は雍涼を捨てて逃走したとも。

ここで曹叡が皆に、「いまや蜀軍は100里足らずに迫っておる。このままでは幾月もせずに、朕は亡国の君主となる」とも言っていた。この発言はよくわからない。南安などが陥ちただけで、蜀軍が洛陽の100里足らずまで迫るはずはないと思うが……。

王朗は曹叡に曹真(そうしん)を出陣させるよう勧め、自身も軍師として従軍したいと願い出る。曹叡は76歳と高齢である王朗の従軍に難色を示すも、結局は認める。

曹叡は曹真を大都督、王朗を軍師にそれぞれ任じ、20万の兵を預けて諸葛亮の迎撃を命ずる。

(11)キ山

魏蜀の両軍が対陣する中、王朗が諸葛亮を陣頭に呼び出し持論を述べる。

これを受け諸葛亮は痛烈に非難し、王朗は血を吐いて落馬。曹真は王朗を収容し、ひとまず引き揚げる。

(12)曹真の軍営

王朗が陣中で亡くなる。曹真は王朗の死をあえて公表することで、諸葛亮をおびき寄せようとする。

(13)諸葛亮の軍営

姜維が諸葛亮に、曹真が王朗の死を伏せず、大々的に葬儀を執り行っていると伝える。諸葛亮は曹真の企みを見抜き、姜維から魏軍の伏兵の候補地としてギョサン(?)の名を聞く。

(14)洛陽宮

曹叡のもとに、曹真が諸葛亮の計にかかり、兵の半分を失ったとの知らせが届く。併せて、王朗が陣頭で罵倒され憤死したことも伝わる。

曹叡から意見を求められた太傅(たいふ)の鍾繇(しょうよう)は、一族の者の命を懸けて司馬懿を推挙する。

(15)諸葛亮の軍営

諸葛亮が連戦連勝に逸(はや)る諸将をなだめ、しばらく休むよう伝える。

諸葛亮は皆に、武器と兵糧を補充したあと趙雲が10万の兵で長安を取り、魏延が8万の兵で洛陽を取る。自身は大軍をひきいてその後ろに続く、とも伝えたうえ、うまくゆけば半年ほどで中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)を平定することができるだろう、との見通しを話す。

そこへ李豊(りほう)が着き、李厳(りげん)の書状を諸葛亮に渡す。諸葛亮は、李厳が孟達(もうたつ)を説いて帰順させたことを知り、その手柄を高く評価する。

諸葛亮は孟達への書状をしたため、9月10日に新城(しんじょう)の精鋭をひきいて洛陽を取るよう伝えさせる。同日に自分も進軍し長安を取るとも。

(16)司馬懿邸

司馬師(しばし)が司馬懿に、夏侯楙が生け捕られ、曹真も兵と領土を失い、カンヨウ(漢陽?)のほとんどの要地が諸葛亮の手に落ちたことを伝える。

ここで出てきた司馬懿邸がどこにあるのかわからなかった。これが実家ということなら、名門の司馬家としてはあり得ない粗末さ。ちなみに『三国志演義』(第94回)では、司馬懿が宛城(えんじょう)に閉居していることになっていた。このドラマでも宛城という設定なのだろうか?

だが、司馬懿は河内郡(かだいぐん)温県(おんけん)の出身である。曹叡から故郷へ戻れと言われ、なぜ温県ではなく南陽郡(なんようぐん)の宛県に戻っていることにしたのかは謎だ。

また、ここまで司馬師は名前だけの登場だった。なぜ弟の司馬昭ばかりを前面に押し出したのかはよくわからなかった。

華歆(かきん)が司馬懿を訪ね、曹叡の詔(みことのり)を届ける。

司馬懿は驃騎大将軍(ひょうきたいしょうぐん)に復したうえ征西大都督に任ぜられ、中原の各部隊の兵馬を委ねられて即日出兵を命ぜられる。

このドラマでよく出てくる驃騎大将軍。驃騎将軍に大が付くのか? という点は相変わらず謎のまま。

驃騎大将軍は范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』に数多くの用例があり、将軍号として通用することがわかった。(2016/2/18追記)

このシーンについて、『三国志演義』(第94回)では征西大都督ではなく、平西都督(へいせいととく)の官位が加えられたことになっていた。

司馬懿は曹叡の詔を拝受し、すぐに宛城の将軍府に赴任すると告げる。

ここで華歆が司馬懿に、鍾繇は一族53人、華歆も一族47人の命をそれぞれ懸け、司馬懿を曹叡に推挙したことも話していた。

管理人「かぶらがわ」より

あっけなく諸葛亮に敗れる夏侯楙と曹真。諸葛亮に反論され憤死する王朗。諸葛亮の四輪車にはクールなイメージを持っていたのですが、ドラマで映像化されてみるとそうでもない印象を受けました。

諸葛亮が颯爽(さっそう)と馬に乗って登場し、馬上から王朗に反論したほうが見栄えがしそうです。76歳だという王朗さえ馬に乗っていましたし……。諸葛亮には馬を多用できない理由があったのかもしれませんね。

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