『三国志 Three Kingdoms』の考察 第70話「楊修の死(ようしゅうのし)」

219年、夏侯淵(かこうえん)の戦死を受けて自ら漢中(かんちゅう)攻略に向かった曹操(そうそう)。

ある夜、陣中の合い言葉を聞いた楊修(ようしゅう)が、皆に帰還の準備を始めるよう勧めたことに激怒し、彼の処刑を命ずる。

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第70話の展開とポイント

(01)西暦219年 定軍山(ていぐんざん)の戦い

黄忠(こうちゅう)の攻撃を受けた夏侯淵が、配下の兵士を遣わし曹操に援軍を求める。

(02)曹操の軍営

曹操のもとに夏侯淵から援軍の要請が届く。

曹操は使いの兵士に休息を命じ、準備ができ次第、3万の軍勢を付けて徐晃(じょこう)と許褚(きょちょ)を救援に向かわせると告げ、夏侯淵にあと1日死守するよう伝えさせる。

曹操が司馬懿(しばい)に指摘され、定軍山への援軍を約束したことは気休めにすぎないと認める。

ここで曹操が司馬懿に、「第一の関を攻め落とされて以来、これで何度目の負け戦となろう」と尋ね、司馬懿が「4度目です」と答えていた。

(03)漢中 劉備(りゅうび)の軍営

劉備のもとに黄忠が夏侯淵の首を携えて戻り、定軍山の攻略を報告する。

劉備は黄忠を征東将軍(せいとうしょうぐん)に任じたうえ、天子(てんし。献帝〈けんてい〉)に上奏して爵位を求めると告げる。そして皆に、全軍を挙げて曹操との決戦に臨むと宣言する。

(04)曹操の軍営

曹操のもとに、定軍山の陥落と夏侯淵の戦死の知らせが届く。そこへ劉備から挑発する書簡が届き、曹操は書かれていた内容に激怒する。

曹操が劉備軍の位置を尋ねると、許褚が、すでに趙雲(ちょううん)と黄忠は渭水(いすい)を渡り、劉備は35万の軍勢をひきいてその後ろに続いていると答える。

同じく徐晃の位置を尋ねられると、許褚が、徐晃は浮き橋を架けて渭水を渡り、西側に砦を築いており、韓信(かんしん)に倣い背水の陣の覚悟と思われると答える。

曹操は「徐晃は兵書を読みあさるが理解が浅い」と言い、背水の陣を布(し)いた韓信の相手には策略がなかったものの、自分たちの相手は劉備と諸葛亮(しょかつりょう)だと非難する。

さらに曹彰(そうしょう)の位置を尋ねられると、許褚が、曹操の命に従い5万の精鋭とともにこちらに向かっており、現在は斜谷(やこく)まで来ていると答える。

曹操が、今夜の合い言葉を聞きに来た部将に「鶏肋(けいろく)」と伝える。この合い言葉を聞いた楊修は、配下の者に帰還の準備を命ずる。

曹操は皆が帰り支度をしているのを見て理由を問いただし、楊修の処刑を命ずる。

曹操は皆を集め、翌日、五界山(ごかいざん)で劉備を迎え撃つと宣言する。

(05)西暦219年 漢中の戦い

曹操と劉備が大軍をひきいて対陣し、陣頭に出て言葉を交わす。その後、両軍が真っ向から激突する。

ここで劉備が曹操に「僭越(せんえつ)にも王を自称し、献帝を囲い込み、皇后を殺(あや)め、忠臣を虐殺した……」と言っていた。このドラマでは先の第22話(02)で、曹操が董貴妃(とうきひ)を縊殺(いさつ)させたことだけに触れていたはず。やはり董貴妃を皇后として扱っているように見えてしまう。

(06)曹操の軍営

開戦から3日目、曹操のもとに、馬超(ばちょう)が1万余りの兵をひきいて現れ、浮き橋を奪われたとの知らせが届く。曹操は徐晃に鉄騎をひきいて迎え撃つよう伝える。

続いて曹操のもとに、魏延(ぎえん)が数千の騎兵をひきいて現れ、兵糧本営を攻め落としたとの知らせも届く。

司馬懿が曹操に、まだ趙雲が現れていないと注意を促していたところ、趙雲がこの本陣に突入したとの知らせが届く。これを聞いた曹操は、激しい頭痛に襲われて気を失う。

(07)退却中の曹操

曹操から戦況を尋ねられた司馬懿が、失った兵は25~30万、輜重(しちょう)や兵糧もことごとく失い、漢中の城はいずれも劉備の手に落ちたことを伝える。

また、事は急を要していたため、曹操が気を失っている間に程昱(ていいく)・曹彰・徐晃らと相談のうえ撤退命令を出し、許都(きょと)へ引き揚げる途中だとも告げ、越権行為を謝罪する。

曹操は撤退命令を出したことをとがめず、後方の様子を尋ねる。司馬懿は、曹彰が3万の兵をひきいて斜谷に潜んでいると答える。

ここで曹操から策を求められた司馬懿が、やはり孫権(そんけん)に書状を送り、荊州(けいしゅう)を攻めさせるべきだと進言する。

(08)漢中

劉備が皆の労をねぎらい酒宴を催す。この席に劉封(りゅうほう)・孟達(もうたつ)・王平(おうへい)の三将軍が上庸郡(じょうようぐん)一帯を陥し、漢中全域を掌握したとの知らせが届く。

ここで法正(ほうせい)が劉備に漢中王となるよう勧め、張飛(ちょうひ)も賛成するが、劉備は同意しなかった。それでも皆から推す声が上がり、諸葛亮も賛意を示す。そのため劉備も王位に即くことを承諾する。

(09)荊州 襄陽(じょうよう)

関羽(かんう)のもとに、劉備が漢中を攻略し、漢中王に即位したとの知らせが届く。

関羽は樊城(はんじょう)攻めを口にし、馬良(ばりょう)に諫められる。

ここで馬良が関羽に、「(樊城を守っている曹仁〈そうじん〉は、)5年前には周瑜(しゅうゆ)をあとひと息で仕留めるところまで追い詰めました」と言っていた。

関羽は馬良の諫言を聞き入れず、傅士仁(ふしじん)と糜芳(びぼう)に2万の精鋭を預け、翌日の出立を命ずる。まずはギジョウ(宜城?)を取り、関羽自らがひきいる大軍を待って樊城を取るのだと。

ところがその夜、傅士仁と糜芳の軍営で失火があり、軍営の半分が燃えてしまう。関羽は傅士仁と糜芳を斬るよう命ずるが、助命を求めた馬良の顔を立てて命は助ける。

しかし関羽は、大きな板でふたりを40回叩かせたうえ3等降格とし、糜芳は南郡(なんぐん)を、傅士仁は公安(こうあん)を、それぞれ守るよう命ずる。

関羽は改めて関平(かんぺい)と廖化(りょうか)を先鋒とし、翌日の出立を命ずる。

(10)許都

曹操のもとに、関羽がギジョウを陥し、さらに樊城を包囲したとの知らせが届く。曹仁が救援を求めているとも伝わる。

曹操は皆が関羽と戦うことに尻込みしたため、于禁(うきん)を大将に指名する。

于禁が先鋒の武将を付けてほしいと求めると、名乗りを上げた龐徳(ほうとく)が2階級昇進のうえで起用される。

于禁と龐徳は8万の軍勢をひきいて樊城へ向かうことになり、曹操も20万の軍勢をひきいて後方支援に回ると告げる。

皆が退出した後、ひとり残った于禁が曹操に、龐徳がもともと馬超の部下だったことなどを挙げて起用を危ぶみ、別の武将に代えてほしいと頼む。

曹操は龐徳を呼んで先鋒の取り消しを伝え、馬超らが劉備に仕えていることへの不安を話して聞かせる。

龐徳は額を床に打ちつけて忠誠を表し、その様子を見た曹操は改めて先鋒として認める。

管理人「かぶらがわ」より

夏侯淵の戦死と楊修の処刑。魏王曹操に対抗して漢中王を名乗る劉備。

あと正史『三国志』によれば、于禁は当初から無能な将軍だったわけではありません。ただ、この樊城への救援では失態を演じてしまいましたね。

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