周瑜(しゅうゆ)は黄蓋(こうがい)と示し合わせ、わざと軍議の場で激しく対立してみせたうえ、黄蓋を棒で100回叩くよう命ずる。
その後、長江(ちょうこう)北岸の烏林(うりん)に陣を構える曹操(そうそう)のもとへ、黄蓋から投降する旨の密書が届く。
第41話の展開とポイント
(01)赤壁(せきへき) 周瑜の軍営
周瑜が投降してきた蔡兄弟(蔡中〈さいちゅう〉と蔡和〈さいか〉)を受け入れる。
軍議の場で、黄蓋が周瑜の方針を批判したうえ罵る。周瑜は諸将の懇願に免じて死罪は許すが、黄蓋を棒で100回叩くよう命ずる。
★ここで程普(ていふ)が周瑜に、「黄将軍は齢60近い。100回も叩いては死に追いやるも同然。ここは何とぞ、恩情をかけてくださらぬか?」と言っていた。黄蓋の年齢設定がうかがえる。
★また、黄蓋が棒で叩かれていたとき諸葛亮(しょかつりょう)の姿はあった。しかし、魯粛(ろしゅく)は柴桑(さいそう)から赤壁へ向かっていた途中だったので、その場に居合わせなかったという設定。
魯粛が赤壁へ戻り、諸葛亮を訪ねる。魯粛は黄蓋を見舞ってきたことを話し、周瑜を諫めなかった諸葛亮を責める。
諸葛亮が、黄蓋の一件は周瑜の苦肉の計であるとの見立てを語ると、魯粛は策だと見抜いていたなら、それこそ諫言すべきだったと応ずる。
魯粛は、諸葛亮が周瑜を止めてこそ策の成功の証しだと言い、この策の痛ましさが一段と増すことで真実味を帯び、周瑜の知謀を助けることになったはずだと話す。そのことについては諸葛亮も認める。
★ここで魯粛が諸葛亮に、「曹操を倒そうと主君同士が手を組み半年……」とも言っていた。
(02)烏林 曹操の軍営
曹操のもとに黄蓋から投降する旨の密書が届く。曹操は苦肉の計だとして、黄蓋の使いの者を処刑するよう命ずる。
★このドラマでは、黄蓋の密書を届けた男は闞沢(かんたく)ではなく、ただの密使という設定になっていた。
続いて曹操のもとに、蔡中と蔡和から密書が届く。曹操は、不満の色を見せているという甘寧(かんねい)らと密かにつながりを持たせ、戦の際にともに寝返るようにとの返答を伝えさせる。
曹操は11月15日の正午に文官と武将を帯同させ、ともに閲兵に臨むことを決める。
閲兵を終えた夜、曹操が酒宴を催し、皆の前で詩(曹操の作と伝えられる「短歌行〈たんかこう〉」)を吟ずる。
★このときの酒宴は船上ではなく、陸で催されたという設定。
★また、この宴席で曹操がこれまでの戦いを振り返っていた。自分が54歳になることに始まり、黄巾(こうきん)の平定、呂布(りょふ)・袁術(えんじゅつ)・袁紹(えんしょう)の討伐、遼東(りょうとう)への遠征にまで触れたもの。
曹操54歳(208年時点)は正史『三国志』とも合っている。ドラマでは描かれていない遼東遠征の話も出てきたが、確かにいつの間にか(遼東遠征の帰還後に亡くなった)郭嘉(かくか)がいなくなっている。
(03)赤壁 周瑜の軍営
その夜、周瑜が外に出て対岸にある曹操の軍営を眺めていたところ、にわかに風が吹く。この風向きを見た周瑜は突然倒れる。
諸葛亮が魯粛に促されて周瑜を見舞う。諸葛亮は処方と称し、周瑜の憂いごとが、火攻めに適した東(東南)の風を欠いていることだと書き示す。
諸葛亮は周瑜に、自身が伝授された鬼門遁甲術(きもんとんこうじゅつ)を用いれば、雨や風を操ることができると話す。
諸葛亮は魯粛に、南屏山(なんぺいさん)に七星壇(しちせいだん)を築くよう頼む。諸葛亮は周瑜に、11月20日に風を起こして22日にやませることを提案し、同意を得る。
★この日は11月15日という設定。曹操が閲兵後に酒宴を催した日と同じ日になる。
(04)南屏山
諸葛亮が七星壇に登り、風を呼ぶための祈とうを始める。その一方、周瑜は諸将を集めて命を下す。
程普は5千の兵をひきい、曹軍の旗を掲げて江北(こうほく)の烏林へ行き、蓄えてある敵の兵器や兵糧を焼き払うよう命ぜられる。
甘寧は3千の兵をひきいて黄州(こうしゅう)の境へ行き、敵の援軍を断つよう命ぜられる。
太史慈(たいしじ)は3千の兵をひきい、1日置いて烏林の程普の援護に向かい、東からの敵の援軍を断つよう命ぜられる。
凌統(りょうとう。淩統)は3千の兵をひきいてカイシュ(?)を取るよう命ぜられる。
董襲(とうしゅう)は3千の兵をひきいて漢陽(かんよう)を取るよう命ぜられる。
潘璋(はんしょう)は3千の兵をひきいて曹軍の旗を掲げ、1日置いて漢陽へ行き、董襲を援護し、西北の敵の退路を断つよう命ぜられる。
ここまでが歩兵と騎馬兵の戦略。以下が水軍の戦略で、6つの部隊に分かれると。
韓当(かんとう)が第1部隊の隊長。周泰(しゅうたい)が第2部隊、蔣欽(しょうきん)が第3部隊、陳武(ちんぶ)が第4部隊、丁奉(ていほう)が第5部隊、徐盛(じょせい)が第6部隊の、それぞれ隊長。
この6人が300艘(そう)ずつをひきいる。東南の風が吹いてから半時後、帆を揚げて北岸に攻め入る手はず。そして周瑜は南屏山の西の頂に指揮台を置き、攻め入るときに号令を下すと伝える。
★これらの周瑜の命令には後漢(ごかん)時代に合わない地名も使われているため、全容を把握するのが難しかった。
(05)赤壁 周瑜の軍営
諸葛亮が祈とうを始めて3日経った11月20日、いまだ東南の風は吹かず。
呂蒙(りょもう)は周瑜に、ふた時経ったら兵を動かすと告げる。周瑜は、今日のうちに東南の風が吹かなかった場合はもちろん、七星壇に着いた後で風が吹いた場合も諸葛亮を斬るよう命ずる。
(06)南屏山
東南の風が吹いた後、諸葛亮が七星壇から姿を消す。
その後、途中で待っていた小喬(しょうきょう)が、諸葛亮を自分の馬車に同乗させて燕子磯(えんしき)まで送る。
(07)燕子磯 ※渡し場
諸葛亮が、2日前から待機させていた趙雲(ちょううん)の小舟に乗り、帰途に就く。
(08)赤壁 周瑜の軍営
呂蒙が周瑜に諸葛亮を取り逃がしたことを伝える。
★ここで呂蒙が周瑜に、趙雲の舟は3日前から停泊していたと報告。前の(07)の話と1日食い違うようだが……。
周瑜は小喬に剣を突きつけ、諸葛亮を逃がしたのかと問い詰める。小喬が認めたため、周瑜はすぐに出ていくよう言い放つ。「もう二度と、私の前に現れるな」とも。
管理人「かぶらがわ」より
季節外れの東南の風がビュービューと。諸葛亮が神を思わせる活躍をしていた第41話。黄蓋がビシバシ叩かれていた印象が薄まったほどでした。
水を差すようで申し訳ないのですけど、諸葛亮が祈とうで風を吹かせたというのは史実ではありません。一方で、火攻めの時に強い東南の風が吹いていたことは史実です。
小喬が赤壁までついてくるという展開に不満を感じていましたが、まさか諸葛亮を救う役だったとは――。ここまで考えてあったのなら、まぁドラマだし、こういう設定もアリなのかなと、ちょっとだけ見方を改めました。
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監督:ガオ・シーシー 脚本:チュウ・スージン 国内販売元:エスピーオー
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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