『三国志 Three Kingdoms』の考察 第41話「苦肉の策(くにくのさく)」

周瑜(しゅうゆ)は黄蓋(こうがい)と示し合わせ、わざと軍議の場で激しく対立してみせたうえ、黄蓋を棒で100回叩くよう命ずる。

その後、長江(ちょうこう)北岸の烏林(うりん)に陣を構える曹操(そうそう)のもとへ、黄蓋から投降する旨の密書が届く。

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第41話の展開とポイント

(01)赤壁(せきへき) 周瑜の軍営

周瑜が投降してきた蔡兄弟(蔡中〈さいちゅう〉と蔡和〈さいか〉)を受け入れる。

軍議の場で、黄蓋が周瑜の方針を批判したうえ罵る。周瑜は諸将の懇願に免じて死罪は許すが、黄蓋を棒で100回叩くよう命ずる。

ここで程普(ていふ)が周瑜に、「黄将軍は齢60近い。100回も叩いては死に追いやるも同然。ここは何とぞ、恩情をかけてくださらぬか?」と言っていた。黄蓋の年齢設定がうかがえる。

また、黄蓋が棒で叩かれていたとき諸葛亮(しょかつりょう)の姿はあった。しかし、魯粛(ろしゅく)は柴桑(さいそう)から赤壁へ向かっていた途中だったので、その場に居合わせなかったという設定。

魯粛が赤壁へ戻り、諸葛亮を訪ねる。魯粛は黄蓋を見舞ってきたことを話し、周瑜を諫めなかった諸葛亮を責める。

諸葛亮が、黄蓋の一件は周瑜の苦肉の計であるとの見立てを語ると、魯粛は策だと見抜いていたなら、それこそ諫言すべきだったと応ずる。

魯粛は、諸葛亮が周瑜を止めてこそ策の成功の証しだと言い、この策の痛ましさが一段と増すことで真実味を帯び、周瑜の知謀を助けることになったはずだと話す。そのことについては諸葛亮も認める。

ここで魯粛が諸葛亮に、「曹操を倒そうと主君同士が手を組み半年……」とも言っていた。

(02)烏林 曹操の軍営

曹操のもとに黄蓋から投降する旨の密書が届く。曹操は苦肉の計だとして、黄蓋の使いの者を処刑するよう命ずる。

このドラマでは、黄蓋の密書を届けた男は闞沢(かんたく)ではなく、ただの密使という設定になっていた。

続いて曹操のもとに、蔡中と蔡和から密書が届く。曹操は、不満の色を見せているという甘寧(かんねい)らと密かにつながりを持たせ、戦の際にともに寝返るようにとの返答を伝えさせる。

曹操は11月15日の正午に文官と武将を帯同させ、ともに閲兵に臨むことを決める。

閲兵を終えた夜、曹操が酒宴を催し、皆の前で詩(曹操の作と伝えられる「短歌行〈たんかこう〉」)を吟ずる。

このときの酒宴は船上ではなく、陸で催されたという設定。

また、この宴席で曹操がこれまでの戦いを振り返っていた。自分が54歳になることに始まり、黄巾(こうきん)の平定、呂布(りょふ)・袁術(えんじゅつ)・袁紹(えんしょう)の討伐、遼東(りょうとう)への遠征にまで触れたもの。

曹操54歳(208年時点)は正史『三国志』とも合っている。ドラマでは描かれていない遼東遠征の話も出てきたが、確かにいつの間にか(遼東遠征の帰還後に亡くなった)郭嘉(かくか)がいなくなっている。

(03)赤壁 周瑜の軍営

その夜、周瑜が外に出て対岸にある曹操の軍営を眺めていたところ、にわかに風が吹く。この風向きを見た周瑜は突然倒れる。

諸葛亮が魯粛に促されて周瑜を見舞う。諸葛亮は処方と称し、周瑜の憂いごとが、火攻めに適した東(東南)の風を欠いていることだと書き示す。

諸葛亮は周瑜に、自身が伝授された鬼門遁甲術(きもんとんこうじゅつ)を用いれば、雨や風を操ることができると話す。

諸葛亮は魯粛に、南屏山(なんぺいさん)に七星壇(しちせいだん)を築くよう頼む。諸葛亮は周瑜に、11月20日に風を起こして22日にやませることを提案し、同意を得る。

この日は11月15日という設定。曹操が閲兵後に酒宴を催した日と同じ日になる。

(04)南屏山

諸葛亮が七星壇に登り、風を呼ぶための祈とうを始める。その一方、周瑜は諸将を集めて命を下す。

程普は5千の兵をひきい、曹軍の旗を掲げて江北(こうほく)の烏林へ行き、蓄えてある敵の兵器や兵糧を焼き払うよう命ぜられる。

甘寧は3千の兵をひきいて黄州(こうしゅう)の境へ行き、敵の援軍を断つよう命ぜられる。

太史慈(たいしじ)は3千の兵をひきい、1日置いて烏林の程普の援護に向かい、東からの敵の援軍を断つよう命ぜられる。

凌統(りょうとう。淩統)は3千の兵をひきいてカイシュ(?)を取るよう命ぜられる。

董襲(とうしゅう)は3千の兵をひきいて漢陽(かんよう)を取るよう命ぜられる。

潘璋(はんしょう)は3千の兵をひきいて曹軍の旗を掲げ、1日置いて漢陽へ行き、董襲を援護し、西北の敵の退路を断つよう命ぜられる。

ここまでが歩兵と騎馬兵の戦略。以下が水軍の戦略で、6つの部隊に分かれると。

韓当(かんとう)が第1部隊の隊長。周泰(しゅうたい)が第2部隊、蔣欽(しょうきん)が第3部隊、陳武(ちんぶ)が第4部隊、丁奉(ていほう)が第5部隊、徐盛(じょせい)が第6部隊の、それぞれ隊長。

この6人が300艘(そう)ずつをひきいる。東南の風が吹いてから半時後、帆を揚げて北岸に攻め入る手はず。そして周瑜は南屏山の西の頂に指揮台を置き、攻め入るときに号令を下すと伝える。

これらの周瑜の命令には後漢(ごかん)時代に合わない地名も使われているため、全容を把握するのが難しかった。

(05)赤壁 周瑜の軍営

諸葛亮が祈とうを始めて3日経った11月20日、いまだ東南の風は吹かず。

呂蒙(りょもう)は周瑜に、ふた時経ったら兵を動かすと告げる。周瑜は、今日のうちに東南の風が吹かなかった場合はもちろん、七星壇に着いた後で風が吹いた場合も諸葛亮を斬るよう命ずる。

(06)南屏山

東南の風が吹いた後、諸葛亮が七星壇から姿を消す。

その後、途中で待っていた小喬(しょうきょう)が、諸葛亮を自分の馬車に同乗させて燕子磯(えんしき)まで送る。

(07)燕子磯 ※渡し場

諸葛亮が、2日前から待機させていた趙雲(ちょううん)の小舟に乗り、帰途に就く。

(08)赤壁 周瑜の軍営

呂蒙が周瑜に諸葛亮を取り逃がしたことを伝える。

ここで呂蒙が周瑜に、趙雲の舟は3日前から停泊していたと報告。前の(07)の話と1日食い違うようだが……。

周瑜は小喬に剣を突きつけ、諸葛亮を逃がしたのかと問い詰める。小喬が認めたため、周瑜はすぐに出ていくよう言い放つ。「もう二度と、私の前に現れるな」とも。

管理人「かぶらがわ」より

季節外れの東南の風がビュービューと。諸葛亮が神を思わせる活躍をしていた第41話。黄蓋がビシバシ叩かれていた印象が薄まったほどでした。

水を差すようで申し訳ないのですけど、諸葛亮が祈とうで風を吹かせたというのは史実ではありません。一方で、火攻めの時に強い東南の風が吹いていたことは史実です。

小喬が赤壁までついてくるという展開に不満を感じていましたが、まさか諸葛亮を救う役だったとは――。ここまで考えてあったのなら、まぁドラマだし、こういう設定もアリなのかなと、ちょっとだけ見方を改めました。

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