吉川『三国志』の考察 第002話「流行る童歌(はやるどうか)」

思わぬ成り行きから、黄巾賊(こうきんぞく)の荷を担ぐことになった劉備(りゅうび)。

立ち寄った寺で老僧の意味深な言葉を聞き、黄巾賊の大方(だいほう)の馬元義(ばげんぎ)は劉備を仲間に加えたいと考えるが――。

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第002話の展開とポイント

(01)荒れ果てた寺

黄巾賊の大方の馬元義らの荷物を担いでついていく劉備。4日間も歩き続けた末、とある寺にたどり着いた。

食べ物や飲み物にありつけると期待した馬元義と手下の甘洪(かんこう)だったが、寺にいたのは骨と皮ばかりの老僧ひとり。諦めた馬元義らが立ち去ろうとしたとき、老僧は劉備の顔を見て言った。

「あなたこそ魔魅跳梁(まみちょうりょう。のさばる化け物)を退け暗黒の国に楽土を創(た)て、乱麻の世に道を示し、塗炭の底から大民を救ってくれるお方に違いない」

外で聞いていた馬元義は、堂から出てきた劉備に黄巾党の勃興などを語って聞かせ、仲間に加わるよう誘う。劉備は故郷に残してきた母が許せば、と前置きしつつも、仲間に加わる考えであるように装った。

ここで馬元義が、黄巾賊の総大将である張角(ちょうかく)とふたりの弟のことにも触れていた。そこでは張角は大賢良師(だいけんりょうし)と唱え、(弟の)張梁(ちょうりょう)と張宝(ちょうほう)のふたりを天公将軍(てんこうしょうぐん)、地公将軍(ちこうしょうぐん)と呼ばせたとあった。

だが、これは史実と異なる。史実では(大賢良師・)天公将軍を称したのは張角で、張宝が地公将軍を、張梁が人公将軍(じんこうしょうぐん)を、それぞれ称していた。つまり兄弟の順番は張角、張宝、張梁になるが、吉川『三国志』では張角、張梁、張宝という順になっている。

管理人「かぶらがわ」より

劉備と老僧との出会い、そして馬元義による黄巾党講座で構成されていた第2話。馬元義の話の中には、霊帝(れいてい)がまだ12、3歳の幼少だと言いつつ、すでに黄巾賊が地方で蜂起していたとも語っていたり、時間的な設定に混乱が見られます。

永寿(えいじゅ)2(156)年生まれの霊帝が12、3歳のころというと、永康(えいこう)元(167)年ぐらいでしょうか?

黄巾の乱が勃発したのは中平(ちゅうへい)元(184)年。なので張角の勢力が急速に広まっていたとしても――。167年ごろに各地で黄巾賊が蜂起していたような印象を抱かせるのは適当なのだろうか、と感じました。

テキストについて

『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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