吉川『三国志』の考察 第218話「敗将(はいしょう)」

巴西(はせい)で張飛(ちょうひ)に惨敗し、3つの寨(とりで)を失い、瓦口関(がこうかん)へ逃げ込んだ張郃(ちょうこう)。

南鄭(なんてい)の曹洪(そうこう)に救援を要請するも拒否され、かえって激しい怒りを含んだ厳命が届く。

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第218話の展開とポイント

(01)巴西

張飛の軍はすさまじい勢いで進撃。魏延(ぎえん)と雷同(らいどう。雷銅)を両翼とした態勢もよかった。

魏(ぎ)の張郃が構えた3か所の陣は、瞬く間に討ち破られ、3万余の兵力のうち2万余を失い、張郃自身もかろうじて瓦口関まで落ち延びていく。

(02)瓦口関

ここで張郃は救援を求めたが、南鄭にいる曹洪は烈火のごとく怒り、峻烈(しゅんれつ)な命を返してくる。

「張郃はわが命を用いず、なまじ自信を持った戦いをして要害を奪われたのだ。今は我に救援に送る兵なし。すべからく逆襲して、もとの本陣を奪取すべし」

曹洪の怒りを聞くと、張郃の驚きや恐れはひと通りでない。

そこで張郃は新たに計を立てた。残兵をふた手に分けて瓦口関の前に伏せ、本陣はなお退却と見せかければ、張飛は必ず追いくるに違いなし。そのとき一斉に打って出て敵の退路を遮断すれば、挽回の端緒を得べしと。

(03)瓦口関の関外

張郃が一隊をひきいて敵前に進み出ると、雷同が馬を飛ばして打ちかかる。2、3合打ち合い、張郃は予定のごとく逃げにかかった。猛(たけ)った雷同が追ってくると、頃合いを見て合図を送る。すると魏の伏勢が一度に起こり、雷同の退路を断った。

計られたと気づき、雷同が馬を返そうとするところ、張郃はにわかに追いかかり、斬ってしまう。この様子を見ていた張飛が張郃に迫る。

張郃はしばし渡り合っては、また逃げて誘おうとしたが、今度は計略に乗ってこない。張飛は深追いせず、そのうち馬首を巡らせて本陣に帰った。

(04)瓦口関の関外 張飛の本営

張飛は魏延を呼び、敵の計には計をもってせねばならぬと言い、ある計を伝える。張郃を擒(とりこ)にし、必ず雷同が仇(あだ)を討ってみせると。

「我は一軍をひきい、明日また正面より挑む。汝(なんじ)は精兵をすぐり、敵の伏兵が我の深入りを機に退路を断たんとするとき、山間に伏せて急に兵をふた手に分け、敵の伏兵に当たり、一手は車輛(しゃりょう)に干し草を山と積んで小路をふさぎ、これに火を付けよ」

魏延は喜び勇み、配下の精鋭をすぐって配備に就いた。

(05)瓦口関の関外

翌日、張飛は堂々と軍勢を進め、魏軍の正面を攻める。張郃も自ら馬を進め、10合ほど戦っては逃げの手を使う。だが、追ってこないと思っていた張飛が、兵と一緒になって追ってくる様子。

張郃は伏兵を置いている地勢まで逃げると、馬首を巡らせ、追い寄せてきた張飛を目がけて逆襲に転ずる。

ところが、左右から起こったのは蜀(しょく)の伏兵。虚を突かれた張郃の兵はたちまち乱れ、散々に討ち破られ、谷の中へ追い込まれてしまう。そのうえ柴(シバ)の車で細道がふさがれており、これに一斉に火がかけられたので、ついにひとり残らず焼死した。

(06)瓦口関

張郃は残り少ない敗残の手兵を集め、命からがら瓦口関に逃がれる。門を閉じ、ここを死守すべく厳重に守った。張飛と魏延は数日にわたって攻めたものの、揺るぎもしない。要害は堅固で、地勢も険阻を極めていた。

(07)瓦口関の関外

張飛は正面攻撃を諦め、20里後方に退き、陣を構える。そして、自ら手兵の数十騎を選んで伴い、山路の偵察を行った。

ある日、張飛が山道からふと見ると、百姓らしい幾人かの男女が、背に荷を負い、藤蔓(フジヅル)にしがみつき、あるいは葛(カズラ)に跳びついたりし、山を越えていく姿が目に留まった。

そこで部下に命じ、あの百姓を追いかけるよう言い、驚かさぬように連れてこさせる。まもなく兵士は6人ほどの百姓を連れてきた。若者も老人も交じっていて、みな何かおびえた顔を土につけた。

張飛が静かに、努めて優しく尋ねる。

「お前たちは、どうしてこのような険しい山路をたどり、山を越えようとしているのか?」

年配の百姓が、代表の格で幾分たじろぎながら答えた。

「私たちは漢中(かんちゅう)の者でございますが、故郷へ帰ろうとここまで参りますと、何でも、本道には激しい合戦があると聞きました」

「そのため蒼渓(そうけい)を過ぎ、梓潼山(しどうざん)の檜欽川(かいきんせん)から漢中へ出ようと相談いたしまして、この山へかかったわけでございます」

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「蒼渓(県)は後漢(ごかん)では益州(えきしゅう)巴西郡に属した。なおこの地名は、実際には晋代(しんだい)に閬中県(ろうちゅうけん)の一部を割いて置かれたものである」という。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注によると、「(蒼渓は)現在の四川省(しせんしょう)蒼渓県。ただし隋(ずい)の開皇(かいこう)18(598)年に漢昌県(かんしょうけん)が改称されて蒼渓県となった」という。蒼渓が置かれた経緯について両書の見解が異なっており、判断がつかないので併記しておく。

なお、井波『三国志演義(5)』(第70回)では檜欽川を檜釿川としていた。

大きくうなずきながら、再び張飛が質問する。

「この路は、瓦口関とよほど離れているか?」

年配の百姓は答えた。

「いや、それほどではございません。梓潼山の小路は瓦口関の背後に通じております」

この答えに大喜びする張飛。百姓たちを本陣へ連れ帰り、それぞれ褒美を与え、酒を振る舞ってねぎらった。

張飛は魏延を呼んで下知する。

「さっそく兵をひきい、瓦口関の正面に攻めかかれ。我はあの百姓を案内として精兵500余りを引き連れ、小路を取って敵の背後に回り、一気に残余を壊滅せしめよう」

(08)瓦口関

張郃は幾度かの敵襲を退け、関内でひと息ついていたが、ひたすら援軍を待つばかりであることに変わりはなかった。

物見を四方に立て、一刻も早く援軍きたるの報を得ようと焦っていた矢先、正面に魏延の兵らしきものが近づいてきたとの知らせを受ける。

張郃は厳重に関を固めるよう命じたうえ、自分は一部の兵を連れ、関を下って攻め返そうとした。そのとき瓦口関の背後の八方から火の手が上がり、たちまち燃え広がる。

(09)瓦口関の関外

張郃が馬首を返して戻ると、そこには張飛の姿があった。張郃は関の横に通じている小路へと馬を向けたが、これは歩いて通るのもやっとの道。岩石が多く、馬は蹄(ひづめ)を痛めて脚を滑らせ、思うように動けない。

張飛がひたむきに追ってくるのを見ると、張郃は馬を捨て、転ぶように木の根にすがり、岩にかじりつき、生きた心地もなく、すり傷だらけになって逃げに逃げた。

ようやく追手から逃れて辺りを見ると、自分とともに助かった者は14、5人。すごすごと南鄭にたどり着いたときには、我ながら哀れな姿だった。

(10)南鄭

曹洪は張郃の敗戦を聞くと、火のごとく怒り、引き出して首を刎(は)ねよと言う。

これを行軍司馬(こうぐんしば)の郭淮(かくわい)が諫める。しばらく一命を預け、もう一度5千余騎を与えて、葭萌関(かぼうかん)を攻めさせるのがよいと。

曹洪は郭淮の言を容れ、張郃の一命は特に助ける。そして新たに5千の兵を分け与え、葭萌関を攻撃するよう命じた。

管理人「かぶらがわ」より

どうも張飛に対してはいいところがない張郃。ついに瓦口関も奪われ、曹洪のいる南鄭まで逃げ帰ることに。初めは3万の兵を分けてもらったのですけど……。

今回は地勢の険しい場所での戦いが描かれていました。平地での戦いあり、山地での戦いあり、江上での戦いあり。多彩な戦いが描かれているのも『三国志』の魅力のひとつ。

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