名誉挽回の機会を与えられた張郃(ちょうこう)は、改めて5千余騎をひきい、劉備軍(りゅうびぐん)の守る葭萌関(かぼうかん)へ押し寄せた。
この知らせを受けた成都(せいと)では、諸葛亮(しょかつりょう)から、閬中(ろうちゅう)の張飛(ちょうひ)を増援に回すという意見が出たものの、ここで黄忠(こうちゅう)が自身の起用を求めて許される。その副将には厳顔(げんがん)が選ばれた。
第219話の展開とポイント
(01)葭萌関
郭淮(かくわい)の進言に面目を留めた張郃。この一戦にすべての汚名を払拭せんものと、意気も新たに5千余騎を従えて、葭萌関へ馬を進めた。
★郭淮の進言については前の第218話(10)を参照。
葭萌関を守っていたのは蜀(しょく)の孟達(もうたつ)と霍峻(かくしゅん)。張郃軍が改めて攻めてきたとの報を得て、軍議を開く。
霍峻が言う。
「天然の要害にある葭萌関を、わざわざ出て戦うは愚である。関を頼んでよく守るが良策と思う」
だが孟達は反対し、敵の来攻を待つは戦略の下である。すべからく関を出でて、即決進撃を阻むべし、と称して退かない。
何度かの議が凝らされた結果、孟達の議を採り、蜀兵は葭萌関を出て張郃の軍勢と戦闘を交えた。孟達も自分から張郃に挑んだが、散々に破れてしまう。彼が逃げ戻ったのを見た霍峻は驚き、成都へ救援を求める早馬を送る。
(02)成都
知らせを受けた劉備は、諸葛亮を呼んで策を議した。諸葛亮は全軍の大将を集め、閬中にいる張飛を葭萌関へ回してはどうかと諮る。
ここで法正(ほうせい)が、張飛は閬中に留め、葭萌関へはほかの大将を送るべきだと述べた。諸葛亮は笑いを浮かべ、張飛でなくては張郃に太刀打ちできないだろうと言う。
すると黄忠が激しく気色ばんで立ち上がり、自分が赴く覚悟を示す。
諸葛亮は覇気を認め、救援に差し向けることを決める。ただ、必ず副将を連れていくように、とも言った。黄忠はいたく喜び、同じく老年の厳顔の起用を求める。
劉備は黄忠の言葉に満足し、進発を許す。趙雲(ちょううん)らは再考を促したものの、諸葛亮の考えは決まっていた。
「御身(あなた)らはみな、ふたりの老人を見て軽んじているが、よろしくない。張郃を破って漢中(かんちゅう)を取るのを、ふたりの思うに任せたらよいだろう」
諸将は言うこともなく、冷笑して退散する。
(03)葭萌関
黄忠と厳顔が兵をひきいて到着すると、孟達と霍峻は大いに笑い、あざけって関守の印を渡した。黄忠と厳顔は山上に旗を立て、敵にその名を知らしめる。
黄忠が密かに厳顔に言う。
「諸所でのうわさを聞きましたかな。いずこでも、我らふたりの老年を嘲笑しておりますぞ。ひとつ力を合わせて大なる功を上げ、奴らを驚かせてくれよう」
誓いも固く、兵をそろえて出馬した。
(04)葭萌関の関外
これを見た張郃も馬を出し、黄忠の陣に向かって罵る。黄忠は罵り返すと、馬を進めて張郃に当たった。20余合戦ううち、突如、張郃勢の背後から小路を迂回(うかい)した厳顔の兵が現れる。
挟撃された張郃勢は一度に崩れ、鬨(とき)の声に追われながら、ついに8、90里も退却してしまう。
(05)南鄭(なんてい)
曹洪(そうこう)は、こたびも張郃が敗れたと知り、急ぎ罪をたださんと怒ったが、再び郭淮が諫めた。
「いま罪を問われるなら、きっと張郃は蜀の軍門に下ってしまうでしょう。かくては取り返しのつかぬことになります。別に大将を遣って助け、ともに敵を防ぐことが上策と考えます」
曹洪はこれを容れ、夏侯惇(かこうじゅん)の甥の夏侯尚(かこうしょう)に韓玄(かんげん)の弟の韓浩(かんこう)を添え、5千余騎を与えて援軍に差し向けた。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(韓玄は)もと長沙太守(ちょうさたいしゅ)。かつて黄忠と魏延の上官であった。第7巻『黄忠の矢』参照」という。吉川『三国志』や『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第70回)では、韓浩を韓玄の弟としていたが、正史『三国志』にはそのような記事は見えない。
(06)葭萌関の関外 張郃の本営
張郃は新手の勢を見て大いに喜び、諸将を集めて軍議を開く。
そこで張郃が言う。
「黄忠、老いたりといえども、思慮深く勇気もあり、そのうえ厳顔も必死に協力しているので、軽々しくは戦えません」
すると韓浩もこう言って、覚悟のほどを眉間にあふれさせた。
「われ長沙にある折、よく黄忠が人となりに接していた。彼は魏延と心を合わせ、わが兄を殺した憎い奴。今日ここに会うたは天の御心(みこころ)。必ず仇(あだ)を報ぜずにはおられません」
韓浩は夏侯尚とともに新手の兵をひきい、陣を構えて敵を待つ。
(07)葭萌関の関外
黄忠は毎日、辺りの地理を調査しつつあった。今日も地勢を調べに歩いていると、厳顔が思い出したように言う。
「この近くに天蕩山(てんとうざん)と申す山があります。曹操(そうそう)が兵糧を蓄えて、遠大な計を巡らせたところです。もしこの山を攻め取ったならば、魏軍(ぎぐん)は糧食補給の路を断たれ、すべて漢中に留まることができなくなるはずです」
厳顔は攻略の手段を打ち合わせると、一軍をひきいていずこかへ進発していく。居残った黄忠は、夏侯尚の軍勢が寄せてきたと聞き、陣容を整えて待ち受ける。
魏の軍中から韓浩が打ってかかると、黄忠も出て応じた。夏侯尚は黄忠の背後へ回ろうとする。黄忠は折を計っては逃げ、立ち直っては戦い、また逃げして20里余り退がった。誘導作戦である。夏侯尚は追いまくって陣を奪取した。
翌日も同じような戦が行われ、また20里ほど進み、夏侯尚の意気は当たるべからざるものがある。
韓浩も気勢を上げて続き、先に奪い取った黄忠の陣に着くと、すぐに張郃を呼んで陣屋の守りを頼み、なおも進もうとした。
張郃は夏侯尚と韓浩に、黄忠の負け方が解せないと言い、必ず何か計があるに違いないから、軽々と深追いしないほうがいいと注意を促す。
これを聞いた夏侯尚はかえって怒り、張郃を臆病者呼ばわりして前進を続けた。
この翌日も、敵は20里退去。こうして次々と敗走する形で、とうとう葭萌関に逃げ込んだまま、今度はどうしても出てこなくなった。
(08)葭萌関
夏侯尚が関前に陣を構えると、この様子を見た孟達は、劉備のもとへ早馬を飛ばす。
(09)成都
劉備は驚き、諸葛亮にこの由を告げる。しかし諸葛亮は、黄忠の驕兵(きょうへい)の計に違いないと言う。趙雲らはその言葉を信じられず、劉備の不安もあったので、密かに劉封(りゅうほう)に一軍を付けて救援に向かわせた。
(10)葭萌関
黄忠は、劉封が到着すると笑って言った。
「これは驕兵の計じゃ。今宵の一戦に、見事に敵を叩きのめすであろう。5か所の陣を捨てたは、敵に暫時これを貸し与え、努めて兵糧などを蓄えさせ、数日間の敗を一日にして取り戻さんためだ。よく見物していくがよい」
(11)葭萌関の関外 夏侯尚の本営
その夜半、黄忠は自ら5千余騎を従え、関門を開いて攻撃の火蓋を切る。このとき魏軍は、ここ数日は敵が静まり返っていたため、すっかり心を緩め、ことごとく眠っていた。
思いもかけぬ鬨の声とともに、5千余騎の攻撃を食らい、大混乱を起こし、惨めにも黄忠軍に踏みにじられてしまった。
夏侯尚も韓浩も乗馬さえ見当たらず、かろうじて徒歩で逃げる。一夜にして、せっかく奪った陣のうちの3か所までを奪い返され、おびただしい死傷者を出した。
(12)葭萌関の関外
黄忠は、敵の遺棄した兵糧や兵器などを孟達に運搬させ、息もつかずに猛攻を続ける。劉封は兵を休ませるよう勧めたが、黄忠は言った。
「いにしえより、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』と言われている。身を捨ててこそ手柄も高名も上がる。息をついてはならぬ。者ども進めっ!」
1か所といえど、よく支える地点もなく、魏軍のひたすらな敗走は自軍の兵の動きにもおびえる始末で、ついに漢水(かんすい)の辺りまで退却のやむなきに至る。
★新潮文庫の註解によると「(『虎穴に入らずんば虎児を得ず』は)危険を冒さなくては大利は得られないというたとえ。後漢(ごかん)の班超(はんちょう)の言葉が典拠。貧しいころの呂蒙(りょもう)も、『まさに虎穴を探らざれば、安(いずく)んぞ虎子を得ん』と言ったという(『三国志』〈呂蒙伝〉)」とある。
(13)漢水のほとり
我に返った張郃は、ふと気づいて、夏侯尚と韓浩に尋ねる。
「天蕩山は味方の兵糧を貯蔵してあるところ。米倉山(べいそうざん)に続き、みなこれ漢中の軍勢が生命と頼むところである。万一、かの地に敵の手が回っては一大事であろう」
これに夏侯尚が答える。
「米倉山には、わが叔父の夏侯淵(かこうえん)が大軍をひきいて陣取り、定軍山(ていぐんざん)に続いておりますから、少しもご心配はいらぬと思います」
「また天蕩山には、わが兄の夏侯徳(かこうとく)がだいぶ前からおるはずです。我々も参って一緒になり、あそこを守ったがよかろうと思います」
(14)天蕩山
夏侯尚は、張郃や韓浩とともに天蕩山に至り、夏侯徳と会見して告げた。
「黄忠、驕兵の計を用い、我を関前におびき寄せ、勢いに乗って逆襲し来たり。終夜追われたため兵糧や武具を捨て、これまで逃げてまいった」
夏侯徳は、全山には10万の兵があると言い、夏侯尚に兵を分け、黄忠の陣屋を再奪取するよう勧める。
だが、張郃は攻めてはならないと言い、あくまでもここを守り、敵の行動を看視するほうがよいと述べた。
そこへ突如として鼓の音が響き、鬨の声が遠近に聞こえだす。黄忠が攻めてきたという。
なお張郃は出撃を戒めたが、夏侯徳は聞き入れず、韓浩に3千余騎を与えて出撃を許す。韓浩は武者震いして山を下った。
一方の黄忠はひたむきに馬を進め、止まるところを知らず。日もすでに西山に没し、天蕩山の険は、いよいよ激しく前を阻むばかりである。
劉封は長追いは無用だとし、このあたりで一応、軍勢を留めてはどうかと諫めた。しかし黄忠はあざ笑うと、まっしぐらに駆け上り、鼓を打たせ、鬨を作って勢いを上げる。
韓浩は坂路の途中でこれを迎え、自ら挑みかかったものの、かえって黄忠に一刀にして斬り伏せられてしまう。
夏侯尚は韓浩が斬られたと聞くと、急に兵をひきいて黄忠に迫る。すると山上からにわかに鬨の声が聞こえ、陣所陣所とおぼしきところから火の手が上がった。
その中から厳顔の軍勢が打って出ると、陣中で消火に努めていた夏侯徳は大いに驚く。厳顔は刀を回して討ってかかり、夏侯徳を馬より下に斬って落とした。
諸所より上がった火炎は、見る見るうちに峰を焦がして谷に満ち、凄絶(せいぜつ)限りない。黄忠と厳顔が前後から攻め立てると、張郃と夏侯尚には防ぐことができず、定軍山へ落ちて集まり、夏侯淵と一手になった。
(15)成都
劉備は早馬で勝報を受け取ると、諸将を招いて祝勝の宴を張る。この席で法正は、今こそ大軍を起こし、君自ら漢中を攻略されるべきだと主張した。
劉備は進言を容れ、10万の兵に動員令を下し、よき日を選んで出撃すべく、抜かりない手配を命ずる。
建安(けんあん)23(218)年の秋7月、劉備ひきいる10万の軍勢は、趙雲を先手として葭萌関へ出た。
★井波『三国志演義(5)』(第70回)では、趙雲に加えて張飛も先鋒を務めたとあったが、後の話を読むと、ここで張飛も先鋒を務めていたとするのは合わない。
(16)葭萌関
劉備は黄忠と厳顔を天蕩山から呼び寄せ、重き恩賞を授ける。さらに定軍山の攻略を持ちかけると、黄忠は欣然(きんぜん)として命を受け、さっそく出発しようとした。
すると諸葛亮は彼を引き止め、敵の夏侯淵の才をたたえたうえ、荊州(けいしゅう)から関羽(かんう)を招いて戦わせると言いだす。
管理人「かぶらがわ」より
若手の嘲笑を見事な活躍で跳ね返した黄忠と厳顔。ふたりの老将の功を強調する効果を狙ったかもしれませんが、趙雲まで年長者を馬鹿にした態度を取っていたのには、ちょっとがっかりでした。
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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