吉川『三国志』の考察 第258話「遺孤を託す(いこをたくす)」

劉備(りゅうび)は永安(えいあん)に留まったまま危篤となり、ついに成都(せいと)から諸葛亮(しょかつりょう)を呼ぶ。

諸葛亮は病み衰えた劉備と対面するや、大声を上げて泣くが、ここで劉備から思いもしない話を聞かされる。しかし諸葛亮は――。

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第258話の展開とポイント

(01)永安宮(えいあんきゅう)

この年(蜀〈しょく〉の章武〈しょうぶ〉3〈223〉年)の4月ごろから、劉備は永安宮の客地に病み、その病状は日々篤かった。臣下はみな折あるごとに、成都へ帰って養生されるようにと勧める。

だが、なお劉備は呉(ご)に敗れたことを深く恥じているらしく、そのたびに眉をひそめた。

病がようやく危篤にみえると、すでに彼も命を悟ったものか、「丞相(じょうしょう)の孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)に会いたい」と言いだした。ただこのとき、危篤を知らせる急使は成都に着いていたのである。

諸葛亮はすぐに旅装を整え、太子の劉禅(りゅうぜん)を都に残すと、まだ幼い劉永(りゅうえい)と劉理(りゅうり)の二皇子だけを伴い、夜を日に継いで永安宮に来たりまみえた。

原文「二王子」だが、ここは「二皇子」としておく。

諸葛亮は劉備の変わり果てた姿を見て、その床下に拝哭(はいこく)。

劉備は近臣に命じて龍床(天子〈てんし〉の寝台)の上に座を与え、諸葛亮の背へ細い手を伸ばしながら言う。

「丞相よ、許せ。朕、浅陋(せんろう。見方や考え方が浅はかで狭いこと)の才をもって帝業を成し得たのは、ひとえに丞相を得た賜物であったのに、ついに御身(あなた)の諫めを用いずかかる敗れを招き、また身の病も今すでに危うきを知る」

「朕亡き後は、このうえにもなお内外の大事をすべて御身に託しておくしかない。朕亡き後も、孔明世に在りと、それのみ唯一の頼みとして玄徳(げんとく。劉備のあざな)は逝くぞよ」

滂沱(ぼうだ)、また滂沱。病顔を垂るるものは、諸葛亮の頸(くび)を濡らすばかりであった。

諸葛亮がむせびながら慰めると、劉備は軽く面を横に振り、辺りの近臣をみな室外へ遠ざける。

その中に馬良(ばりょう)の弟の馬謖(ばしょく)もいた。瞼(まぶた)を赤く泣き腫らした姿は痛々しく見える。

劉備は、ふと問うた。

「丞相は、馬謖の才を、日ごろからどう観ておるか?」

諸葛亮は答える。

「末頼もしい若者。将来の英雄と観ておりますが……」

すると、さらに劉備は言った。

「いや。病中親しく観ておるに、言葉は実に過ぎ、胆量は才に劣る。行く末は難しい者と思われた。心して用いられよ」

夕暮れ近く、にわかに容体が改まった劉備は病帳を開かせ、龍床から一同の者へ最後の謁を与える。また「太子劉禅に与うるの遺詔」を諸臣に預け、必ず違背なかれと告げよと言い終わると、再び目を閉じていた。

やがて劉備は、諸葛亮に向かって言う。

「朕、賤土(せんど)に育ち、あまり書は読まなかったが、人生の何たるやは、この年までにほぼ解したつもりである。もういたずらに嘆くのをやめよ」

そして、何か最期の一言を告げんとするらしく、その唇は厳かに息を整えていた。劉備と諸葛亮の仲も、今や両者の幽明の境は、わずかいくつかの呼吸をする間しかない。

我を忘れ、諸葛亮は龍床にすがり、面を寄せて涙のうちに言った。

「何か仰せ遺す詔(みことのり)がございましたら、どうぞお包みなくお命じください。孔明、不才ですが、余命のあらん限りは、肝にお言葉を銘じて、必ずお心残りのないように仕(つかまつ)りましょう」

劉備は、大事の一言を託すとして、こう伝える。

「丞相よ。人将(まさ)に死なんとするや、その言よしという。朕の言葉に、いたずらに謙譲であってはならぬぞ」

「きみの才は、曹丕(そうひ)に十倍する。また孫権(そんけん)のごときは比肩もできない。ゆえによく蜀を安んじ、わが基業をいよいよ不壊(堅固)となすであろう」

「ただ太子の劉禅は、まだ幼年なので、その将来はわからない。もしよく天子たるの天質を備えているものなら、御身が補佐してくれれば誠に喜ばしい。しかし、彼不才にして帝王の器でないときは、丞相、きみ自ら蜀の天子となって、万民を治めよ……」

諸葛亮は拝泣し、手足の置くところも知らなかった。何たる英断、何たる悲壮な遺詔であろう。太子が不才ならば、汝(なんじ)が立って、帝業を全うせよというのである。

諸葛亮は龍床の下に頭を打ちつけ、両目から血を流さんばかり泣いていた。

さらに劉備は、幼少の皇子の劉永と劉理をそば近くへ呼んで諭す。

「父の亡い後、お前たち兄弟は、孔明を父として仕えよ。もし父の言に背くときは不孝の子であるぞ。よいか……」

ここも原文「幼少の王子」だが、「幼少の皇子」としておく。

ふたりは父に促され、諸葛亮の前に並んで、背かざることを誓い、再拝の礼を執った。

「あぁ、これで安心した……」と、劉備は深い呼吸をひとつして、傍らの趙雲(ちょううん)を顧みて言う。

「御身とも、百戦万難の中を久しく共歓共苦してきたが、ついに今日がお別れとなった。晩節を芳しゅうせよ。また丞相とともに、あとの幼き者たちを頼むぞ」

李厳(りげん)にも同じ言を繰り返し、そのほかの文武百官に対しても言った。

「すでに命の迫るを覚ゆ。いちいち汝らに言を付嘱するを得ない。みな一致して社稷(しゃしょく。土地と五穀の神。国家)を助け、おのおの保愛せよ」

言い終わると、劉備は忽然(こつぜん)と崩じた。寿齢63歳。蜀の章武3(223)年4月24日のことである。

永安宮中、嘆き悲しむ声のうちに、やがて諸葛亮は霊柩(れいきゅう)を奉じ、成都へ帰った。

劉備の享年などは、正史『三国志』の記事とも合っている。

(02)成都

太子の劉禅は城を出て迎え、哀痛して、日々夜々の祭を営む。

そして父の遺詔を読み拝すと、「必ず泉下(あの世)の御心(みこころ)を安んじ奉りまする」という旨を祭壇に応え、また群臣にも誓った。蜀の臣下もまた、先帝の遺詔を暗唱するばかりに繰り返し読み、必ず違背なきことを諸葛亮に約す。

諸葛亮は百官に議すと、その年、太子の劉禅を皇帝の位に上せ、漢(かん)の正統を継ぐの大式典を執り行った。同時に改元し、章武3年は建興(けんこう)元年と改められる。

新帝劉禅、あざなは公嗣(こうし)。このときまだ17歳だったが、父の遺詔を奉じて、よく諸葛亮を敬い、その言を尊んだ。

劉禅の年齢も、正史『三国志』の記事と合っている。

劉禅の旨により、諸葛亮は武郷侯(ぶきょうこう)に封ぜられ、益州牧(えきしゅうぼく)を領すことになった。

この年(蜀の建興元〈223〉年)の8月、恵陵(けいりょう。劉備の陵墓)の大葬が済むと、国議は先帝劉備に「昭烈皇帝(しょうれつこうてい)」と諡(おくりな)する。大赦の令が発せられ、国中みな昭烈皇帝の遺徳をたたえ、新帝の治世に、その余光あれと祈った。

管理人「かぶらがわ」より

劉禅がらみの部分には信じられないものがあった劉備の遺命。このことについては後世、実に様々な評価がなされています。

個人的には美談だと思えません。諸葛亮が劉禅を退けて帝位に即くなどということはあり得ないでしょうし、仮にそうなれば、もはや劉氏の漢でもないですし……。

それでも、劉備が人を惹(ひ)きつけるものを持っていたことは確か。臣下とのつながり方が、曹操(そうそう)や孫権とは違いますからね。

英雄の最期は何とも言えない悲しさがあります。巧みな描写が涙を誘った第258話でした。

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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