【姓名】 夏侯玄(かこうげん) 【あざな】 太初(たいしょ)
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 209~254年(46歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第109回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・夏侯尚伝(かこうしょうでん)』に付された「夏侯玄伝」あり。
幸も不幸も曹爽(そうそう)との縁
父は夏侯尚、母は曹氏(曹真〈そうしん〉の姉妹)。和嶠(かきょう)に嫁いだ娘がいた。
225年、夏侯玄は夏侯尚が死去したため17歳で跡を継ぎ、昌陵侯(しょうりょうこう)に封ぜられた。彼は若いころから有名で、20歳の時(228年)に散騎黄門侍郎(さんきこうもんじろう)となる。
その後、曹叡(そうえい)に目通りした際、(出自が卑しかった)毛皇后(もうこうごう)の弟の毛曾(もうそう)と同席する機会があった。夏侯玄は恥辱と感じて不愉快な表情を見せる。曹叡はこのことを根に持ち、彼を羽林監(うりんかん)に左遷した。
後に曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)の初め、従兄の曹爽が政治を補佐するようになると、夏侯玄は昇進を重ねて散騎常侍(さんきじょうじ)・中護軍(ちゅうごぐん)に昇った。
また、しばらくして征西将軍(せいせいしょうぐん)・仮節(かせつ)・都督雍涼諸軍事(ととくようりょうしょぐんじ)となる。
244年、曹爽とともに駱谷(らくこく)の役(魏軍が駱谷から進んで蜀〈しょく〉攻略をもくろみ、得るところなく撤退した)を起こし、人々から批判された。
249年、司馬懿(しばい)がクーデターを発動(正始の政変)。ほどなく曹爽らが処刑されると、夏侯玄は朝廷から召されて大鴻臚(だいこうろ)に任ぜられ、数年後には太常(たいじょう)に転じた。
それでも夏侯玄は曹爽との関係を理由に周囲から抑圧されたため、内心で不満を抱くようになる。
このころ中書令(ちゅうしょれい)の李豊(りほう)は大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)に信任されていたが、密かに夏侯玄を高く評価していた。
そこで李豊は、皇后の父で光禄大夫(こうろくたいふ)の張緝(ちょうしゅう)と結託し、夏侯玄に政治を執らせようと企む。
254年、李豊らは貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)の任命のため、曹芳が宮殿の軒先まで出御(しゅつぎょ)する機会に司馬師を誅殺しようと謀る。
だが計画は事前に発覚し、李豊らとともに夏侯玄も逮捕され、その三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)まで皆殺しとなった。
夏侯玄は東の市場で斬刑に臨んでも顔色ひとつ変えず、立ち居振る舞いも泰然自若としていたという。このとき46歳だった。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には、司馬懿から時事問題について諮問された際、夏侯玄が述べた意見というものがありました。官吏の審査を厳しくして適任者を選ぶようにすること、重複した官職を省くこと、服装の規定を改めることなどを進言したようです。
司馬懿はこれらの意見を大いに評価しつつも、古代からの制度の変遷に触れたうえ、現状をにわかに改めることは不可能だろうと応じています。
夏侯玄の進言部分は、本伝にかなりの長さで採られていました。県の上に郡があり、郡の上に州がある。確かに制度は煩雑で、このあたりがすっきりすれば役人も減らせますし、それぞれの責任も明確になりますね。
夏侯玄の発想には形式にとらわれない様子がうかがえ、曹操(そうそう)に似たところが感じられます。まさに丞相(じょうしょう)向きの人だったのでしょうが、司馬氏と並び立つことはできず、残念な最期でした。
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