【姓名】 文聘(ぶんぺい) 【あざな】 仲業(ちゅうぎょう)
【原籍】 南陽郡(なんようぐん)宛県(えんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第123話で初登場。
【演義】 第034回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・文聘伝』あり。
劉表(りゅうひょう)の没後、曹操(そうそう)の厚遇に応えて江夏(こうか)を堅守、新野壮侯(しんやそうこう)
父母ともに不詳。養子の文休(ぶんきゅう)は跡継ぎで、文岱(ぶんたい)も同じく息子。
文聘は初め荊州(けいしゅう)の劉表に仕え、将軍として北方の防御にあたった。
208年、曹操が荊州討伐のため南下を始めたころ、ちょうど劉表が死去し、息子の劉琮(りゅうそう)が跡を継ぐ。
ほどなく劉琮は荊州を挙げて降伏したが、このとき文聘を呼び、今後も一緒に行動しようと考える。
だが、文聘は言った。
「私は荊州を保つことができませんでした。処罰を待つのが当然です」
曹操が漢江(かんこう。漢水〈かんすい〉)を渡って襄陽(じょうよう)へ入ったところで、ようやく文聘も出頭する。
曹操から出頭の遅れをとがめられると、文聘はこう答えてすすり泣く。
「過日、私は劉荊州(劉表)を補佐して国家にお仕えすることができませんでした」
「荊州は滅びましたが、常に漢川(かんせん)をよりどころに領土を保全し、生きては若年の孤児(劉琮)を裏切らず、死しては地下の方(劉表)に恥じないよう願っておりましたが、事ここに至りました」
「私は悲痛と慙愧(ざんき)の思いに堪えず、早くにお目通りする顔がなかったのです」
曹操は真の忠臣だと高く評価し、手厚い礼をもって遇した。文聘は兵を授かり、曹純(そうじゅん)とともに長坂(ちょうはん)で劉備(りゅうび)を追撃する。
曹操は荊州を平定したものの、江夏は孫権(そんけん)の勢力圏と接しており、民心が安定しなかった。
そこで文聘が江夏太守(こうかたいしゅ)となり、国境地帯を任されて北方の兵を指揮する。このとき併せて関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。
211年、文聘は楽進(がくしん)とともに、尋口(じんこう)で劉備配下の関羽(かんう)を撃破した。功により延寿亭侯(えんじゅていこう)に爵位が進み、討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)の称号を加えられる。
219年、文聘は漢津(かんしん)で関羽の輜重(しちょう)を攻撃し、荊城で敵船を焼き払った。
翌220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、文聘は長安郷侯(ちょうあんきょうこう)に爵位が進み、節(せつ。権限を示すしるし)を授かる。
222年、夏侯尚(かこうしょう)とともに江陵(こうりょう)を包囲した際、文聘は別軍として沔口(べんこう。夏口〈かこう〉)での駐屯を命ぜられた。
その道中の石梵(せきぼん)で孫権軍と遭遇し、これを撃破。文聘は後将軍(こうしょうぐん)に昇進し、新野侯に爵位が進む。
226年、曹丕の死を聞いた孫権が5万の軍勢をひきい、石陽(せきよう)で文聘を包囲する。しかし、文聘は敵の猛攻に動じず固守した。
孫権は20余日にわたり包囲を続けた末に撤退し、文聘はこれを追撃して討ち破った。功により500戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は1,900戸となる。
文聘は江夏に数十年いたが、威光と恩愛があった。彼の名は敵国まで轟(とどろ)き、思い切って侵入してくる者はいなかったという。
文聘の封邑を分割し、息子の文岱が列侯(れっこう)に封ぜられる。別に従子(おい)の文厚(ぶんこう)も関内侯に封ぜられた。
後に文聘が死去(時期は不明)すると壮侯と諡(おくりな)された。すでに文岱は亡くなっていたため、文聘の養子の文休が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
前の主君である劉表父子への義理から出頭を遅らせるあたり、文聘もなかなかの人物。
その姿勢を評価する曹操もさすが。度量が狭い人だったら、言いがかりをつけてバッサリ、ということになりかねないところ。
文聘の下っ端時代の話が出てこなかったのは残念でしたが、威厳と思いやりを兼ね備えた良将だったことはうかがえます。
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