【姓名】 楊阜(ようふ) 【あざな】 義山(ぎざん)
【原籍】 天水郡(てんすいぐん)冀県(きけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第186話で初登場。
【演義】 第059回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・楊阜伝』あり。
恩人のあだ討ちは果たしきれずも、曹叡(そうえい)に直言を連発
父母ともに不詳。姜叙(きょうじょ)は外兄(いとこ。父の姉妹の息子、または母の兄弟の息子)で、楊岳(ようがく)と楊謨(ようぼ)は従弟。孫の楊豹(ようほう)は跡継ぎ。
楊阜は涼州(りょうしゅう)で従事(じゅうじ)をしていたとき、涼州牧(りょうしゅうぼく)の韋端(いたん)の使者として許(きょ)へ赴き、安定長史(あんていちょうし)に任ぜられる。
しかし、長史の務めが合わないと感じて辞職した。
後に韋端が召し還されて太僕(たいぼく)となり、その息子の韋康(いこう)が涼州刺史(りょうしゅうしし)となる。
楊阜は韋康に召されて涼州別駕(りょうしゅうべつが)に就任した。
その後、楊阜は孝廉(こうれん)に挙げられて丞相府(じょうしょうふ)から召されたものの、涼州では上表して彼を引き留め、参軍事(さんぐんじ)とした。
★曹操(そうそう)が丞相を務めていた期間は208~220年。
211年、馬超(ばちょう)は渭南(いなん)で曹操に敗れると、蛮族のもとへ逃走する。
曹操は安定まで追撃したものの、河間(かかん)で蘇伯(そはく)らが反乱を起こしたため、そこから引き返した。
213年、馬超が蛮族をひきいて隴上(ろうじょう。隴山一帯)の攻略に乗り出すと、近隣の郡県は呼応し、ただ冀城だけが固守する。
張魯(ちょうろ)配下の楊昂(ようこう)も駆けつけて馬超を助けたので、冀城は1万余人の軍勢から攻撃を受けた。
楊阜は士大夫や一族の者たち1千余人をひきい、従弟の楊岳に命じて城壁の上に偃月形(えんげつがた)の陣営を備えさせ、馬超軍にぶつかる。
こうして1月から8月まで抵抗を続けたが、なお援軍は到着しない。
そこで別駕の閻温(えんおん)が密かに冀城を脱し、長安(ちょうあん)に駐屯する夏侯淵(かこうえん)に危急を告げに行くことが決まった。
敵の包囲は冀城を数巡していたが、閻温は夜間に水中をくぐり抜ける。だが、顕親(けんしん)の県境で捕らえられ、馬超に殺害されてしまう。
刺史の韋康と太守(たいしゅ。天水太守)は色を失い、馬超への降伏を考え始める。
楊阜は涙ながらに諫めたが、韋康と太守は和議の使いを遣り、城門を開いて馬超を迎え入れた。
馬超は入城後、楊岳を拘束したうえ、楊昂に命じて韋康と太守を殺す。
いったん降伏した楊阜は復讐(ふくしゅう)の気持ちを抱きつつ、なかなか機会をつかめずにいた。そのうち妻が亡くなったので、葬儀のために休暇をもらう。
楊阜は歴城(れきじょう)に立ち寄り、外兄にあたる撫夷将軍(ぶいしょうぐん)の姜叙とその母を訪ね、馬超への復讐計画を語る。姜叙は母の言いつけに従い、この計画に加わった。
そして、外部の郷人である姜隠(きょういん)・趙昂(ちょうこう)・尹奉(いんほう)・姚瓊(ようけい)・孔信(こうしん)を始め、武都(ぶと)の李俊(りしゅん)や王霊(おうれい)と相談し、馬超討伐の手はずを整える。
また、従弟の楊謨を冀城へ遣って楊岳にも計画を伝える一方、安定の梁寛(りょうかん)と南安(なんあん)の趙衢(ちょうく)、龐恭(ほうきょう)らとも通じた。
翌214年?、楊阜は姜叙ととも鹵城(ろじょう)で挙兵した。
★本伝には、この挙兵は(建安〈けんあん〉)17(212)年9月のことだとある。しかし『三国志』(魏書・夏侯淵伝)では(建安)19(214)年のこととしており、『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)でも、以下に見える趙衢らが馬超の妻子を殺害した件を(建安)19(214)年のこととしていた。本伝と食い違いがあるのは不可解だが、建安19(214)年と見るほうが無理がないようだ。
馬超が出撃すると、趙衢や梁寛らは楊岳を解放し、冀城の門を閉ざす。そして馬超の妻子を殺害した。
馬超は歴城を襲って姜叙の母を捕らえるが、彼女の罵言に腹を立て殺してしまう。
楊阜は戦闘で5か所の傷を負い、族弟(いとこ。一族の同世代の年少者)も7人が戦死したが、それでも何とか馬超を退ける。
敗れた馬超は漢中(かんちゅう)の張魯のもとへ逃げ、この年のうちに蜀(しょく)へ奔った。
隴右(ろうゆう。隴山以西の地域)が平定されると、功により11人が列侯(れっこう)に封ぜられ、楊阜も関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。
翌215年、曹操が張魯を討伐した際、楊阜は益州刺史(えきしゅうしし)となり、帰還時に金城太守(きんじょうたいしゅ)に任ぜられたが、その出発前に武都太守に転ずる。
217年、劉備(りゅうび)配下の張飛(ちょうひ)と馬超らが下弁(かべん)に侵出してくると、氐(てい)や雷定(らいてい)などの7部族の1万余人が呼応した。
曹操の命を受け、都護将軍(とごしょうぐん)の曹洪(そうこう)らが迎撃に向かい、翌218年に劉備軍を退却させた。
翌219年、劉備が漢中を押さえて下弁に迫ると、曹操は遠方で孤立している武都の官民を移住させたいと考える。
住み慣れた土地に執着する者が出る心配もあったが、楊阜は普段から権威と信頼を得ていたため、数回に分けて住民と氐族を移し、1万余戸を京兆(けいちょう)・扶風(ふふう)・天水に住まわせ、武都の郡庁も小槐里(しょうかいり)へ移した。
226年、曹丕(そうひ)が崩ずると、楊阜は召し還されて城門校尉(じょうもんこうい)に任ぜられる。武都での在任期間は10余年だった。
曹叡が帝位を継いだ後、楊阜は将作大匠(しょうさくたいしょう)に昇進。
このころ曹叡は宮殿の造営を始めたばかりで、美女を徴発して後宮を満たし、たびたび狩猟に出かけた。秋には大雨が降って稲妻が走り、多くの鳥が死んだ。
楊阜は上奏文を奉って前代の例を挙げ、倹約に努め、民力を重んずるよう諫める。
曹叡は詔(みことのり)を下し、彼の諫言に謝意を示した。
後に楊阜は少府(しょうふ)に昇進。
230年、大司馬(だいしば)の曹真(そうしん)が蜀の討伐に向かったものの、途中で大雨に遭って進めなくなる。
楊阜は上奏文を奉り、天の警告(大雨)に従って軍の召還を進言する。
また、凶作で民が飢えていることを考え、食膳を減らして衣服の水準を落とし、愛玩の工芸品をすべて廃止することを勧めた。
これを受け、すぐに曹叡は諸軍の召還を実行した。
その後、民にとっての悪政について、大いに意見を述べよとの詔が下る。
楊阜は、太平の招来は賢者の任用にかかっており、国の興隆は農業の奨励にかかっているとして、お気に入りの者ばかりを任用することなく、広大な宮殿や高い台楼を築いて民の農事を妨げないよう求める。
さらに工人や俗吏の仕事ぶりを批判したうえ、公卿(こうけい)と郡国に詔を下して賢明善良・品行方正・誠実素朴な人物を推挙させ、そのような賢者の任用を勧めた。
232年、皇女の曹淑(そうしゅく)が生後1年を経ずに夭折(ようせつ)すると、曹叡はこれを甚だ悼む。
平原公主(へいげんこうしゅ)の位を追贈し、彼女のために洛陽(らくよう)に廟(びょう)を建てて南陵(なんりょう)に葬った。
そのうえ曹叡が自ら葬列を見送ろうとしたので、楊阜は上奏文を奉って諫めたが、聞き入れてもらえなかった。
楊阜は朝廷で会議があるたびに剛直さを発揮し、天下のことを己の任務とした。
しばしば諫言して争ったものの容れられず、楊阜は何度も官位を辞退する。これが聴許をみないうちに死去(時期は不明)したが、家に財産は残っていなかったという。孫の楊豹が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
韋康のあだ討ちは半分の成功に終わりましたが、一族や郷人とともに執拗(しつよう)に馬超を狙い続けた楊阜。彼らの態度から義理に厚い涼州気質がうかがえます。
そして曹叡に対する直言の嵐。ケタ外れの国力の浪費があってもなお魏が保たれていたのは、楊阜ら剛直の士の存在が大きいですね。
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