王儀(おうぎ) ※あざなは朱表(しゅひょう)

【姓名】 王儀(おうぎ) 【あざな】 朱表(しゅひょう)

【原籍】 北海郡(ほっかいぐん)営陵県(えいりょうけん)

【生没】 ?~252年?(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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敗戦の責任は統帥にあり

父は王脩(おうしゅう)だが、母は不詳。王忠(おうちゅう)は兄弟。王襃(おうほう)という息子がいた。

王儀は明るく気品があり、誠実な人柄だったという。司馬昭(しばしょう)が安東将軍(あんとうしょうぐん。250~255年?)だったとき、その司馬(しば)を務める。

252年12月、魏軍(ぎぐん)が東関(とうかん)で呉(ご)の諸葛恪(しょかつかく)に大敗した。

ほどなく司馬昭が敗戦の責任について尋ねたところ、王儀は言った。

「責任は軍の統帥にございます」

すると司馬昭は怒りだし、「司馬(王儀)は私に罪を押しつけたいのか!」と言い、王儀を殺してしまった。

息子の王襃は、父が天寿を全うできなかったことを悼んで仕官せず、墓のそばに家を建て、弟子たちに教えて暮らしたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書・王脩伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『晋書(しんじょ)』によるものです。

ただ、王儀の死については謎が残りました。

『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注に引く王沈(おうしん)の『魏書』には、254年に曹芳(そうほう)の廃位を求め、群臣が連名で奉った上奏文が載せられているのですが――。

この中に「(散騎常侍〈さんきじょうじ〉の)臣儀」の名が見えており、これを王儀だとする解釈があるという。

司馬昭が怒りに任せて処刑したのなら、王儀は252年の末か、翌253年の初めに死んだことになるはず……。こうした点がイマイチわかりませんでした。

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