【姓名】 皇甫隆(こうほりゅう) 【あざな】 ?
【原籍】 安定郡(あんていぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
燉煌(とんこう)の住民の暮らしを改善
父母ともに不詳。
曹芳(そうほう)の嘉平(かへい)年間(249~254年)、皇甫隆は金城(きんじょう)の趙基(ちょうき)に代わって燉煌太守(とんこうたいしゅ)となる。
このころ燉煌では田作に関する知識が少なく、灌漑(かんがい)によって田を十分に潤してから、ようやく耕作に取りかかっていた。
種蒔(ま)き機(耬犂〈ろうり〉)の作り方も知らず、水を引き入れて種を蒔くまでの間に人も牛も労力を使い果たし、収穫も少なかった。
そこで皇甫隆が種蒔き機の作り方や効率的な灌漑方法を教えたところ、この年のうちに従来の半分以上の省力化に成功し、収穫も5倍に増えたという。
また、燉煌の習俗では婦人の裙(はかま)にすそを付けたが、それは羊の腸のような形で、そのために綿布1匹も使っていた。
皇甫隆はこうした習俗を禁じたので、節約された費用は計り知れなかった。
燉煌の人々は、皇甫隆が剛毅で決断力のある点では倉慈(そうじ)に及ばないものの、勤勉で愛情と恩恵があり、民の利益になる事業を行った点では倉慈に次ぐ人物だと考えた。
なお、その後の皇甫隆については記事がない。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・倉慈伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。
そこでは歴代の燉煌太守が採り上げられており、倉慈の後任となった天水(てんすい)の王遷(おうせん)、そして趙基と皇甫隆のことに触れていました。
倉慈の記事にこの裴松之注があることで、当時の燉煌の暮らしぶりがいくらかうかがえ、意義深い注だと思います。正史の中で各地の太守の事績まで細かく拾い出すというのは、やはり限界があるでしょうから。
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