【姓名】 陳震(ちんしん) 【あざな】 孝起(こうき)
【原籍】 南陽郡(なんようぐん)
【生没】 ?~235年(?歳)
【吉川】 第106話で初登場。
【演義】 第026回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・陳震伝』あり。
劉備(りゅうび)の荊州(けいしゅう)時代から仕え、たびたび呉(ご)への使者を務める
父母ともに不詳。息子の陳済(ちんせい)は跡継ぎ。
209年、劉備が荊州牧(けいしゅうぼく)になると、陳震は召されて従事(じゅうじ)に任ぜられ、管轄下にある諸郡を取り仕切った。
211年、劉備が益州(えきしゅう)へ入ると、陳震も遠征軍に随行。
214年、劉備が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降した後、陳震は蜀郡北部都尉(しょくぐんほくぶとい)となり、郡名の変更に伴って汶山太守(ぶんざんたいしゅ)に移り、後に犍為太守(けんいたいしゅ)に転じた。
225年、陳震は中央へ入って尚書(しょうしょ)となり、尚書令(しょうしょれい)に昇進して呉への使者を務めた。
229年、孫権(そんけん)が帝位に即くと、陳震は衛尉(えいい)として再び呉へ遣わされ、孫権の即位を慶賀する。
このとき武昌(ぶしょう)で盟約が結ばれ、徐州(じょしゅう)・豫州(よしゅう)・幽州(ゆうしゅう)・青州(せいしゅう)は呉に属するものとした。
そして、幷州(へいしゅう)・涼州(りょうしゅう)・冀州(きしゅう)・兗州(えんしゅう)は蜀に属するものとし、司州(ししゅう)は函谷関(かんこくかん)をもって境界とすることになった。
帰国後、陳震は城陽亭侯(じょうようていこう)に封ぜられた。
235年、陳震は死去し、息子の陳済が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
231年に都護(とご)の李平(りへい。李厳〈りげん〉)が前線への兵糧輸送を怠り、責任逃れのためにでたらめを言って、そのかどで免職されたことがありましたが――。
本伝によると、陳震は使者として呉へ赴く前、諸葛亮(しょかつりょう)に「正方(せいほう。李平のあざな)は腹中に棘(とげ)があり、同郷の者でも近づけない」と話し、彼の動向に注意を促していたそうです。
ちなみに李平は南陽郡の出身で、確かに陳震と同郷でした。陳震の記事もあっさりしたものでしたが、託された大任をそつなくこなす良臣だったようですね。
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