【姓名】 陸抗(りくこう) 【あざな】 幼節(ようせつ)
【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)
【生没】 226~274年(49歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第119回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・陸遜伝(りくそんでん)』に付された「陸抗伝」あり。
西方の国境地帯の統治に尽力した名将
父は陸遜、母は孫氏(そんし。孫策〈そんさく〉の娘)。陸延(りくえん)は兄。息子の陸晏(りくあん)は跡継ぎで、陸景(りくけい)・陸玄(りくげん)・陸機(りくき)・陸雲(りくうん)・陸耽(りくたん)も同じく息子。
245年、陸抗は陸遜が死去したため跡を継ぎ、江陵侯(こうりょうこう)に封ぜられた。
このとき彼は20歳だったが、建武校尉(けんぶこうい)に任ぜられ、陸遜配下の5千の軍勢の指揮も引き継ぐ。
陸遜の柩(ひつぎ)を守って故郷に戻った後、陸抗は都に上って参内し、特別な配慮に対する謝辞を述べる。
その際、孫権(そんけん)は楊竺(ようじく)が告発した、生前の陸遜に関する20項目の疑惑について問いただすも、陸抗はひとつずつ道理だてて説明したので、ようやく孫権も納得した。
翌246年、陸抗は立節中郎将(りっせつちゅうろうしょう)に昇進し、諸葛恪(しょかつかく)に代わって柴桑(さいそう)に駐屯する。
251年、陸抗は都で病気の治療を受け、回復すると任地へ戻ったが、孫権は涙ながらに別れを惜しんで言った。
「以前、私は讒言(ざんげん)を信じ、きみの父に対して大義に背くようなことをしてしまい、きみにも申し訳なく思っている。これまで何度も送った詰問の書面はすべて焼き、他人に見せないでほしい」
翌252年、陸抗は奮威将軍(ふんいしょうぐん)に任ぜられた。
257年、魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)が謀反を起こし、寿春(じゅしゅん)を挙げて呉に降伏すると、陸抗は柴桑督(さいそうとく)に任ぜられて寿春へ向かう。
ここで魏の牙門将(がもんしょう)や偏将軍(へんしょうぐん)を討ち破り、征北将軍(せいほくしょうぐん)に昇進した。
259年、陸抗は鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)に任ぜられ、西陵(せいりょう)の関羽瀬(かんうらい)から白帝(はくてい)までの地域の軍事を統括する。
翌260年、陸抗は仮節(かせつ)となる。
264年、孫晧(そんこう)が帝位を継ぐと、陸抗は鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)となり、(名目上の)益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねた。
270年、大司馬(だいしば)の施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)が死去すると、陸抗は信陵(しんりょう)・西陵・夷道(いどう)・楽郷(らくきょう)・公安(こうあん)の軍事を統括し、楽郷に役所を置いた。
272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が謀反を起こし、城に拠って晋(しん)に降る。
陸抗はこの知らせを聞くや、将軍の左奕(さえき)・吾彦(ごげん)・蔡貢(さいこう)らを西陵へ差し向けた。そして自身も駆けつけると、徹夜で包囲陣の構築を急がせる。
部将たちは、陣地を構築するより速やかに歩闡を攻めたほうがよいと不満を述べたが、陸抗は、かつて自分が整備した西陵城の堅固さについて説明し、皆を納得させようとした。
それでも城を攻めたいと願い出る者が相次いだため、やむなく陸抗は宜都太守(ぎとたいしゅ)の雷譚(らいたん)に出撃を許す。
ところが雷譚は何の戦果も上げられなかったので、ようやく部将たちも陸抗の言い分に納得し、城を包囲する陣地を完成させた。
晋の車騎将軍(しゃきしょうぐん)の羊祜(ようこ)が軍勢をひきいて江陵へ迫ると、呉の部将たちは、救援に向かうべきだと言いだす。
しかし陸抗は、西陵のほうが重要だと説き、江陵へは行かずに西陵に留まった。
もともと江陵一帯は平野で、四方に道路が通じていたことから、陸抗は江陵督の張咸(ちょうかん)に命じ、巨大な堤を築かせて水をせき止めた。
こうして周辺を水浸しにすることで敵襲を防ぐ一方、味方から離反者を出さないよう配慮した。
羊祜は水がせき止められているのを利用し、船を使って兵糧を運ぼうと考えると、かえって堤を切り、歩兵を進めるのだと宣伝した。
陸抗はこの情報を得ると、すぐさま張咸に堤を切るよう命ずる。みな陸抗の意図を測りかね、思いとどまるよう説得を試みたものの、聞き入れてもらえなかった。
羊祜は、当陽(とうよう)まで来たところで堤が切られたことを知り、船ではなく車で兵糧を運ばねばならなくなったが、そのために大きな労力を費やすことになった。
晋の巴東監軍(はとうかんぐん)の徐胤(じょいん)が水軍をひきいて建平(けんぺい)へ向かい、晋の荊州刺史(けいしゅうしし)の楊肇(ようちょう)が西陵へ迫る。
これに対して陸抗は張咸に江陵を固守させ、公安督の孫遵(そんじゅん)に長江(ちょうこう)南岸で羊祜の侵出を防がせ、水軍督の留慮(りゅうりょ)と鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の朱琬(しゅえん)に徐胤の侵出を防がせたうえ、自身は三軍をひきいて西陵城を包囲しつつ、楊肇の軍勢と対峙(たいじ)した。
数か月後、攻めあぐねた楊肇が夜陰に紛れて退却を始める。
陸抗は追撃しようとしたが、西陵城の歩闡が呉軍の隙をうかがっていることを考えると、そうする余力はなかった。
そこで太鼓を打ち鳴らして兵士を勢ぞろいさせ、追撃にかかるよう見せかける。するとこの様子を見ただけで楊肇軍は大混乱を起こし、鎧(よろい)を脱いで逃走しだす。
この様子を見た陸抗が軽装備の兵士らに追撃させると、楊肇は大敗を喫し、羊祜らも軍勢をまとめて引き揚げた。
陸抗は西陵城の攻撃に移り、城を陥落させると、歩闡の一族と主だった部将や軍吏を処刑したが、それ以外の者は赦免されるよう取り計らい、数万人の命を救う。
陸抗は西陵城の修繕を終えると、軍勢をひきいて楽郷へ戻る。彼が功を誇らず、これまで通り謙虚に人と接したため、配下の将士は喜んで仕えた。
帰還後、陸抗は都護(とご)の官位を加えられた。
翌273年、陸抗は任地にあって大司馬・荊州牧に任ぜられる。
翌274年、陸抗は49歳で病死し、息子の陸晏が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『晋陽秋(しんようしゅう)』および習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』によると、陸抗は西陵を陥して歩闡らを斬った後も、国境を挟んで晋の羊祜と対峙し続けます。
ですが、そのうちふたりの間に奇妙な友情が芽生えました。
陸抗が酒を贈ると、羊祜は(毒が入っていないかと)心配することなく飲み、また陸抗が病気になったときには、羊祜から贈られた薬を心配せずに飲んだという具合――。
羊祜が徳と信義を重んずる態度を示し、これまで以上に呉の人々を惹(ひ)きつけようとすると、やはり陸抗も徳と信義を重んじて統治にあたります。
その結果、余った食糧が野外に置かれたままになっていても、それを相手国の兵士が奪うことはなく、逃げ出した牛や馬が国境を越えても、相手国に事情を告げて取り戻せるようにまでなりました。
そうした国境地帯の異常な状況を聞き知った孫晧は、詰問の使者を遣わしますが、陸抗はこう応えます。
「ひとつの街や村にさえ、信義を重んずる者がいなくてはならないものです。まして大国に、そうした者がいなくてよいものでしょうか?」
「私がこのような態度で臨まなければ、ただ相手の徳を明らかにするだけで、羊祜にとっては何の痛みもありません」
習鑿歯も述べていましたが、武力で相手を屈服させることは、徳をもって相手を懐けることには及ばないのですね……。
頭ではわかっているつもりでも、この現代においてすらどうなのでしょう? 自分の未熟な一面を見る思いがしました。
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