紀陟(きちょく)

【姓名】 紀陟(きちょく) 【あざな】 子上(しじょう)

【原籍】 丹楊郡(たんようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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孫和(そんか)への気遣いが子孫を救う

父は紀亮(きりょう)だが、母は不詳。紀孚(きふ)と紀瞻(きせん)という息子がいた。

紀陟が「中書郎(ちゅうしょろう)」を務めたとき、朝廷の実権を握っていた孫峻(そんしゅん)から、南陽王(なんようおう。252~253年)の孫和を厳しく取り調べ、彼を自殺に追いやるよう命ぜられる。

しかし紀陟はひそかに手を回し、孫和が堂々と自分の意見を述べられるよう取り計らう。このことで孫峻の怒りを買い、紀陟は自宅の門を閉じて引きこもることになった。

孫和は孫権(そんけん)の三男で孫晧(そんこう)の父。253年、孫峻の意向により結局は自殺に追い込まれた。

のち孫休(そんきゅう)の時代(258~264年)になると、父の紀亮が「尚書令(しょうしょれい)」を、紀陟が「中書令」を、それぞれ務めた。このため朝会のたび、詔(みことのり)により彼ら父子の間には屛風(びょうぶ)が立てられたという。

その後、紀陟は地方へ出て「豫章太守(よしょうのたいしゅ)」となった。

265年3月、光禄大夫(こうろくたいふ)の紀陟は孫晧の命を受け、五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)の弘璆(こうきゅう)らとともに魏(ぎ)へ遣わされる。

このとき孫晧から魏の晋王(しんおう)の司馬昭(しばしょう)あての返書を託されたが、同年8月、紀陟らが洛陽(らくよう)に着いたころ、ちょうど司馬昭が死去してしまう。同年11月、やむなく紀陟らは帰国の途に就いたが、その後については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』などによるもの。

また、孫晧は父の孫和と関わりのあった諸父(おじ)たちを一族ごと東冶(とうや)へ強制移住させました。

ところが紀陟にだけは特別な配慮を示し、彼の息子の紀孚を「都亭侯(とていこう)」に封じています。即位後は暴政ばかり目立つ孫晧ですけど、かつて紀陟が孫和をかばった恩は忘れていなかったらしい。

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人物データ 呉の重臣
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