【姓名】 全氏(ぜんし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 呉郡(ごぐん)銭唐県(せんとうけん)
【生没】 ?~301もしくは302年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫亮全夫人伝(そんりょうぜんふじんでん)』あり。
呉(ご)の孫亮の正室、全皇后(ぜんこうごう)
父は全尚(ぜんしょう)、母は孫氏(そんし。孫峻〈そんしゅん〉の姉)。全紀(ぜんき)は兄弟。
孫権(そんけん)の娘である全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班〈そんろはん〉)は、皇太子の孫和(そんか)とその母の王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉)を讒言(ざんげん)したことがあったため、仕返しを恐れて不安だった。
そこで全公主は、孫権の気持ちが末息子の孫亮に傾いているのを見て、弟の孫亮との関係を深めておこうと考えた。
全公主は、しばしば全氏を褒めて孫権を動かし、彼女を孫亮の妻として迎えさせることに成功する。
250年、孫権は皇太子の孫和を廃し、代わりに孫亮を立てた。このとき全氏は皇太子妃となった。
252年4月、孫権が崩御(ほうぎょ)して孫亮が帝位を継ぐと、翌253年1月には全氏が皇后に立てられた。彼女の一族から5人も侯に封ぜられ、呉の建国以来という隆盛を誇った。
しかし、257年5月に魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こすと、諸葛誕の援軍として派遣されていた全懌(ぜんえき)・全端(ぜんたん)・全禕(ぜんい)・全儀(ぜんぎ)らが魏に投降する。
また、全熙(ぜんき)は陰謀が漏れて殺害された。こうしたことから全氏一族は衰亡へ向かった。
翌258年9月、孫亮が孫綝(そんりん)の誅殺に失敗して帝位を追われ、会稽王(かいけいおう)に貶(おと)される。
さらに260年、会稽郡に広まった流言がもとで、孫亮の位が候官侯(こうかんこう)に貶される。
その後、孫亮は任地へ向かう道中で自殺(異説もある)してしまったが、全氏は候官で暮らすことになった。
一方、父の全尚は一家眷属(けんぞく)を連れて零陵(れいりょう)へ移住したが、後に殺害された。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によると、「全氏は才色兼備で、候官に住んでいたが、280年に晋(しん)によって呉が平定されると内地へ戻り、永寧(えいねい)年間(301~302年)に亡くなった」ということです。
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