袁紹(えんしょう) ※あざなは本初(ほんしょ)、反董卓(とうたく)連合軍の盟主

【姓名】 袁紹(えんしょう) 【あざな】 本初(ほんしょ)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん)

【生没】 ?~202年(?歳)

【吉川】 第017話で初登場。
【演義】 第002回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁紹伝』あり。

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四世三公の名門も、優柔不断さが破滅を招く

実父は袁逢(えんほう)だが、母は不詳。一説に、実父は袁成(えんせい。袁逢の兄)ともいう。袁基(えんき)と袁遺(えんい)は兄(袁基は異母兄、袁遺は従兄ともいう)で、袁術(えんじゅつ)は異母弟。

袁譚(えんたん)・袁熙(えんき)・袁尚(えんしょう)という3人の息子がいた。このほか袁買(えんばい)も息子の可能性がある(孫ともいう)。

袁紹は袁逢の庶子だったため、家を出て伯父の袁成の跡を継いだ。堂々として風貌にも威厳があったが、身分にこだわることなく人士と接したため、大勢の人々が彼のもとに身を寄せた。曹操(そうそう)とも若いころから交際があった。

袁紹は幼少にして郎(ろう)に取り立てられ、20歳のとき濮陽県長(ぼくようけんちょう)となる。その後、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の下で掾(えん)を務め、推挙により侍御史(じぎょし)になった。

188年8月、霊帝(れいてい)が西園八校尉(せいえんはちこうい)を設置。この際、袁紹は虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)から中軍校尉(ちゅうぐんこうい)に昇進し、後に司隷校尉(しれいこうい)を務めた。

翌189年8月、何進が中常侍(ちゅうじょうじ)の段珪(だんけい)らに殺害されると、袁紹は袁術らとともに宮中へ乗り込み、宦官(かんがん)を皆殺しにした。

同年9月、董卓(とうたく)が少帝(しょうてい)を廃して弘農王(こうのうおう)に貶(おと)し、陳留王(ちんりゅうおう)の劉協(りゅうきょう)を帝位に即けた(献帝〈けんてい〉)。

これに反発した袁紹は洛陽(らくよう)を離れ、冀州(きしゅう)へ逃亡。

翌190年1月、勃海郡(ぼっかいぐん)で挙兵。ともに挙兵した諸侯と反董卓連合軍を結成し、その盟主に推される。

翌191年7月、韓馥(かんふく)から冀州の実権を奪う。

197年3月、大将軍に就任。

199年3月、易京(えきけい)で公孫瓚(こうそんさん)を討ち破り、死に追いやる。しかし、翌200年に官渡(かんと)の戦いで曹操に大敗すると、202年5月に死去した。

主な経歴

生年は不詳。

-189年-
4月、霊帝が崩御(ほうぎょ)し、少帝が即位。大将軍の何進に協力して宦官の誅滅を計画したものの、何太后(かたいこう)は許さなかった。

何進が、董卓を召し寄せて圧力をかけようとすると、中常侍や黄門侍郎(こうもんじろう)らは何進を訪ねて謝罪した。このとき再三にわたり、彼らを始末するよう勧めたが、何進は承知しなかった。

8月、何進が中常侍の段珪らにおびき出され、宮中で殺害される。これを受け、弟で虎賁中郎将の袁術らとともに宮中へ乗り込み、宦官を皆殺しにした。

段珪らは、少帝と異母弟で陳留王の劉協を城外へ連れ出し、小平津(しょうへいしん)まで逃走。だが、段珪らは追い詰められて自殺し、少帝は洛陽に還幸する。

9月、董卓が少帝を廃して弘農王に貶し、陳留王の劉協を帝位に即ける(献帝)。

先に袁紹は董卓から、少帝の廃位と陳留王の擁立についての相談を受けていた。その場では表向き賛成の態度を示しておいたが、退出したあと冀州へ逃亡した。

侍中(じちゅう)の周毖(しゅうひ)、城門校尉(じょうもんこうい)の伍瓊(ごけい)、議郎(ぎろう)の何顒(かぎょう)らが董卓に進言したことにより、勃海太守(ぼっかいたいしゅ)に任ぜられ、邟郷侯(こうきょうこう)に封ぜられた。

9月、董卓が何太后を毒殺。

-190年-
1月、勃海郡で挙兵。

後将軍(こうしょうぐん)の袁術、冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥、豫州刺史(よしゅうしし)の孔伷(こうちゅう)、兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)の張邈(ちょうばく)、広陵太守(こうりょうたいしゅ)の張超(ちょうちょう)、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁(きょうぼう)、山陽太守(さんようたいしゅ)の袁遺、済北国相(せいほくこくしょう)の鮑信(ほうしん)、長沙太守(ちょうさたいしゅ)の孫堅(そんけん)らとともに反董卓連合軍を結成。

それぞれ数万の軍勢を擁しており、諸侯の推挙を受けて盟主の座に就く。このとき曹操は奮武将軍(ふんぶしょうぐん)を兼務した。

-191年-
春、韓馥とともに、幽州牧(ゆうしゅうぼく)の劉虞(りゅうぐ)を帝位に即けようとしたものの、劉虞が固辞したため断念。

2月、董卓が郎中令(ろうちゅうれい)の李儒(りじゅ)に命じ、弘農王の劉辯(りゅうべん。少帝)を毒殺。

2月、董卓が献帝に迫り、長安(ちょうあん)への遷都を強行。洛陽の住民を追い立てて、ことごとく関中(かんちゅう)へ移らせる。一方で董卓は洛陽に留まり、畢圭苑(ひっけいえん)に駐屯した。

3月、董卓が洛陽に火を放つよう命じ、宮廟(きゅうびょう)や民家を焼き尽くす。

3月、董卓により、叔父で太傅(たいふ)の袁隗(えんかい)と兄で太僕(たいぼく)の袁基が殺害され、その一族も皆殺しになる。

7月、韓馥から冀州の実権を奪う。

この年、献帝に曹操を東郡太守に任ずるよう求める上奏を行い、東武陽(とうぶよう)に役所を置かせた。

-192年-
1月、公孫瓚と界橋(かいきょう)で戦って大破する。

4月、司徒(しと)の王允(おういん)と尚書僕射(しょうしょぼくや)の士孫瑞(しそんずい)が、呂布(りょふ)と共謀して董卓を誅殺。

この年、袁術と仲たがいする。袁術は公孫瓚に救援を要請。

これを受けて公孫瓚は、劉備(りゅうび)を高唐(こうとう)に、単経(ぜんけい)を平原(へいげん)に、陶謙(とうけん)を発干(はっかん)に、それぞれ駐屯させて圧迫してくる。しかし曹操の協力を得て、これらをすべて討ち破った。

-193年-
10月、公孫瓚が大司馬(だいしば)の劉虞を殺害。

-195年-
この年、部将の麴義(きくぎ)を遣わし、鮑丘(ほうきゅう)で公孫瓚を大破。

-196年-
7月、献帝が洛陽へ還幸。

8月、曹操の意向に従い、献帝が許(きょ)への遷都を決定。

10月、献帝から太尉(たいい)に任ぜられる。しかし、大将軍に任ぜられた曹操の下に置かれることを恥辱と考えて受けず。

すると曹操は大将軍を袁紹に譲り、新たに司空(しくう)に就任したうえ、車騎将軍(しゃきしょうぐん)を兼務する。

こうして改めて大将軍に任ぜられることになり(正式に就任したのは翌年〈197年〉の3月)、鄴侯(ぎょうこう)に封ぜられたが、爵位のほうは辞退した。

-197年-
春、袁術が寿春(じゅしゅん)で帝位を僭称(せんしょう)。

3月、大将軍に就任。

-198年-
この年、曹操が下邳(かひ)で呂布を処刑した。

-199年-
3月、易京で公孫瓚を包囲。公孫瓚は敗北を免れないと悟り、妻子を殺害したのち自殺(生け捕りにされたという異説もある)した。

6月、袁術が死去。

この年、劉備が下邳で徐州刺史(じょしゅうしし)の車冑(しゃちゅう)を殺害。その地で旗揚げし、沛(はい)に駐屯した。そこで騎兵を遣って劉備を援護させた。曹操は、劉岱と王忠(おうちゅう)を遣わして劉備を攻めさせたものの、勝つことができなかった。

この年、長男の袁譚に青州(せいしゅう)を、次男の袁熙に幽州を、さらに甥の高幹(こうかん)に幷州(へいしゅう)を、それぞれ任せた。

この年、審配(しんぱい)と逢紀(ほうき)に軍の事務を統括させ、田豊(でんほう)・荀諶(じゅんしん)・許攸(きょゆう)を参謀に、顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)を将軍に、それぞれ任じ、10万の精鋭と1万の騎兵を選抜。

この軍勢をもって曹操の本拠地の許を攻撃しようとし、これに対抗した曹操は官渡の守りを固めた。

-200年-
?月、曹操自ら、徐州の劉備討伐に乗り出す。このとき田豊から、曹操の後方を襲うようにとの進言があったが、ちょうど幼い息子が病に苦しんでいたため出兵を許可せず。この後、曹操に敗れた劉備を受け入れた。

2月、郭図(かくと)・淳于瓊(じゅんうけい)・顔良を遣わし、白馬(はくば)にいた東郡太守の劉延(りゅうえん)を攻めさせる。袁紹自身も兵をひきいて黎陽(れいよう)に赴き、黄河(こうが)を渡ろうとした。

4月、曹操が劉延の救援に赴く。この際、曹操は荀攸(じゅんゆう)の進言を容れ、延津(えんしん)から兵を渡河させ、袁紹軍の背後を突く姿勢を見せた。兵を分けてこの動きに対応したところ、曹操は軽鋭の兵をひきい、通常の倍の速度で白馬へ向かってきた。

?月、白馬から迎撃に出た顔良が、曹操配下の張遼(ちょうりょう)と関羽(かんう)に撃破される。この際、顔良が斬られた。こうして曹操は白馬の包囲を解き、その地の住民を移すと、黄河に沿って西へ向かった。

?月、黄河を渡って曹操軍を追い、延津の南まで進む。曹操は兵を留め、南阪(なんはん)に陣営を築いた。

?月、文醜と劉備がひきいた5、6千の騎兵部隊が、曹操軍に大破される。ふたりは、曹操が餌として白馬から動かした輜重(しちょう)部隊の策に引っかかり、文醜は斬られた。

?月、曹操が軍勢を官渡へ戻す。一方、袁紹は軍勢を陽武(ようぶ)へ進める。このころ関羽が劉備のもとに逃げ帰った。

8月、陣営を連ねて少しずつ前進。このとき砂山に沿って陣を布(し)いていたが、これは東西数十里にわたるものだった。曹操は陣営を分けて対抗したものの、これを撃破した。

?月、さらに軍勢を進めて官渡に臨み、土山と地下道を築く。曹操も同じものを造って対抗してきた。

?月、汝南(じょなん)の賊将の劉辟(りゅうへき)らが曹操に背き、許の近郷を荒らす。これを受け、劉備に劉辟を援護するよう命ずるが、曹操は曹仁(そうじん)を遣わして撃破。劉備は逃走し、劉辟の屯営も討ち破られた。

10月、さらに輸送車を投入して兵糧を運搬させることを決め、淳于瓊ら5人に1万余の兵を与えて護送を命ずる。淳于瓊らは、袁紹の陣営から北40里にある烏巣(うそう)に宿営した。

?月、許攸が曹操のもとに奔り、淳于瓊らを急襲するよう進言する。

曹操は進言を容れ、曹洪(そうこう)に留守を預けると、自ら5千の歩騎をひきいて夜中に出発、夜明けごろ淳于瓊の陣へ攻め寄せた。騎兵を遣わして救援させるも、すでに淳于瓊らは散々に討ち破られ、みな斬られていた。

このとき張郃(ちょうこう)と高覧(こうらん)に、曹洪の守る敵の本営を攻めさせていたが、淳于瓊が敗れた後、ふたりとも曹操に降伏した。袁紹軍は総崩れとなり、袁紹自身も、息子の袁譚とともに軍勢を捨てて逃げ、黄河を渡った。

-201年-
4月、倉亭(そうてい)の駐屯軍が、曹操の攻撃を受けて敗れる。

?月、鄴に帰還。離散した兵士を収容し、反旗を翻した冀州の郡県を再び平定。

-202年-
5月、病を得て、憂悶(ゆうもん)のうちに死去。

管理人「かぶらがわ」より

名門という看板は、想像を超える力を持っていました。黙っていても人材はそろうし、兵士も集まる。だから地盤も整う。

ただ名門ゆえなのか、袁紹には上から目線な態度が目立ちます。これは弟の袁術も同じで、こちらは帝位を僭称するところまで行ってしまいました。

袁紹の配下には、適切な進言をした人物が少なからずいました。

まだ献帝が各地を転々としていたころ、郭図(本伝の裴松之注〈はいしょうしちゅう〉に引く『献帝伝』では沮授〈しょじゅ〉の進言とある)は、すぐに献帝を迎え、鄴に都を置くべきだと進言しています。

ここで袁紹は決断できず、結局は献帝を曹操に持っていかれました。許に遷都した後で、どうこう言っても遅いですよね……。

息子たちや甥に各州の統治を任せようとしたときには、後の禍いになることを心配した沮授の諫言がありました。このとき袁紹は自分の考えを押し通しましたが、自身の死後、沮授が心配したような後継者争いが起こります。

許の襲撃を計画したときには、沮授と田豊から、時機を待つようにとの諫言がありました。しかし、このふたりと対立していた審配と郭図が反対の意見を述べると、袁紹は出兵を決めてしまうのです。

曹操が一時的に官渡を離れ、徐州の劉備討伐に向かったときには、田豊から曹操軍の背後を襲うよう勧められました。

ところが袁紹は、まだ幼い息子が病に苦しんでいることを理由に、許可しませんでした。この件などは、ちょっと信じられないほどの話です。

官渡の戦いにおける大敗の原因は、烏巣の守りを淳于瓊らに任せたことだと言われていますが、人選が悪いというより、ここまで人材や意見の取捨選択にセンスがないと、いずれ自壊することになったのではないでしょうか?

一方の曹操は、このあたりの感覚がとても優れていました。人間の器という点で、袁紹はまったく相手にならなかったのだと感じます。

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