【姓名】 皇甫嵩(こうほすう) 【あざな】 義真(ぎしん)
【原籍】 安定郡(あんていぐん)朝那県(ちょうだけん)
【生没】 ?~195年(?歳)
【吉川】 第010話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。
西羌(せいきょう)討伐や黄巾(こうきん)討伐で活躍した名将ながら、最後は董卓(とうたく)に屈す
父母ともに不詳。射援(しゃえん)に嫁いだ娘がいた。皇甫酈(こうほれき)は甥に、皇甫謐(こうほひつ)は曾孫に、それぞれあたるという。
184年3月、黄巾の乱が勃発すると、皇甫嵩は左中郎将(さちゅうろうしょう)として、右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)の朱儁(しゅしゅん)とともに、潁川(えいせん)で討伐にあたる。
同年5月、朱儁とともに、長社県(ちょうしゃけん)で黄巾賊の波才(はさい)らを大破。この戦いでは騎都尉(きとい)の曹操(そうそう)の活躍があった。
同年6月、朱儁とともに、西華県(せいかけん)で汝南郡(じょなんぐん)の黄巾賊を大破。
霊帝(れいてい)の詔(みことのり)を受け、引き続き皇甫嵩は東郡(とうぐん)の黄巾賊を、朱儁は南陽郡(なんようぐん)の黄巾賊を、それぞれ討伐することになる。
同年8月、皇甫嵩は、倉亭(そうてい)で黄巾賊の卜巳(ぼくし)を捕らえ、さらに霊帝の詔を受け、北上して張角(ちょうかく)の討伐に向かう。
同年10月、皇甫嵩は広宗県(こうそうけん)で黄巾賊と戦い、張角の弟の張梁(ちょうりょう)を捕らえる。このとき張角はすでに死んでいたため、その柩(ひつぎ)を発(あば)いて首を斬った。
同年10月、功により左車騎将軍(さしゃきしょうぐん)に昇進。
同年11月、皇甫嵩は、下曲陽県(かきょくようけん)で黄巾賊を討ち破り、張角のもうひとりの弟である張宝(ちょうほう)も斬る。
翌185年3月、北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)らが三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)に侵攻。皇甫嵩は、霊帝の詔を受けて討伐に向かったものの、勝つことができなかった。
同年7月、左車騎将軍を罷免される。
188年11月、涼州(りょうしゅう)の賊の王国(おうこく)が陳倉(ちんそう)を包囲。皇甫嵩が右将軍(ゆうしょうぐん)として救援に向かう。
翌189年2月、陳倉で王国を大破。
★このときの皇甫嵩は左将軍(さしょうぐん)とあったが、陳倉で戦っている間の昇進の経緯についてはよくわからず。
192年5月、征西将軍(せいせいしょうぐん)から車騎将軍に昇進。
同年8月、太尉(たいい)に昇進したが、12月には罷免される。
その後、195年に死去。
管理人「かぶらがわ」より
『三国志』には皇甫嵩の伝が立てられていないため、その事績もごく断片的なものしか拾えませんでした。
一方で范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には彼の伝が立てられており、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)などを見ると、そちらにはもう少し具体的な記事があるようです。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・董卓伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く楽資(がくし)の『山陽公載記(さんようこうさいき)』には、以下のようにあります。
「初め董卓が前将軍(ぜんしょうぐん)だったとき(187年ごろ)、皇甫嵩は左将軍だった。ともに韓遂(かんすい)の討伐にあたったが、互いに相手の下風に立とうとはしなかった」
「後に董卓が都に召し出され、少府(しょうふ)や幷州牧(へいしゅうぼく)に任ぜられた際、その手勢を皇甫嵩が預かることになったが、董卓は激怒して従わなかった」
「191年2月に董卓が自ら太師(たいし)に就任したころ、皇甫嵩は御史中丞(ぎょしちゅうじょう)だったので、董卓の車の下で拝礼する」
「董卓が『義真(皇甫嵩のあざな)、参ったか?』と問いかけると、皇甫嵩は『どうして殿がこれほどまでになられることに、思いが及んだでしょうか』と答えた」
「さらに董卓が『鴻鵠(こうこく。大きな鳥)には本来、遠大な志があるものだ。ただ燕(ツバメ)や雀(スズメ)にはわからないだけだ』と言うと、皇甫嵩は『私も昔は殿と同じく鴻鵠でしたが、殿が鳳凰(ほうおう)に変身なさるとは思いもしませんでした』と言った」
「董卓は笑い、『お前がもっと早く頭を下げていたら、このように拝礼せずとも済んだろうに』と言った」
なお、霊帝が董卓を少府に任じようとしたのは188年のこと。幷州牧に任じようとしたのは翌189年のことです。この2度とも、董卓は上奏文を奉って理由を申し述べたうえ、詔に従いませんでした。
結局、皇甫嵩は董卓の暴威に屈する形になったようです。ただ、楽資の『山陽公載記』にはでたらめな記事が多かったらしく、裴松之から厳しく批判されています。
また、ここでは張璠(ちょうはん)の『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』の記事も引かれており。
「董卓は手を打って皇甫嵩に言った。『義真、怖くないか?』。すると皇甫嵩が答えた。『殿は徳をもって朝廷を補佐され、大いなる喜びが訪れようとしておりますのに、何を怖がることがありましょう。もし殿が刑罰を乱用し、権力を振りかざされるなら、天下の人々はみな恐れるでしょう。何も私ひとりに限ったことではございません』。董卓は黙り込んでしまったが、やがて皇甫嵩と和解した」ともありました。
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