現状を打破すべく諸葛亮(しょかつりょう)は自ら江東(こうとう)へ乗り込み、劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)との同盟関係を築こうとする。
ところが孫権配下の重臣たちの間では、曹操(そうそう)との戦を避けるべきだという意見が大勢を占めていた。
第37話の展開とポイント
(01)西暦208年 江夏(こうか)
孫権配下の魯粛(ろしゅく)が、劉表(りゅうひょう)の弔問と称して来訪する。
★ここで魯粛に会う前、諸葛亮が劉備に、自ら江東へ赴き孫権を説得する考えを示していた。「この長江(ちょうこう)において、かつてない激しい戦を引き起こすのです」と。これはまぁいいとして。「孫権が勝てば、それに乗じ荊州(けいしゅう)を取り、曹操が勝てば江東を奪う。さすれば覇業を成せるでしょう」とも話していた。
孫権が勝った場合に劉備が荊州を取るのはともかく、曹操が勝った場合に劉備が江東を奪うのはかなり難しい。出廬(しゅつろ)を決めたときに諸葛亮が語ったプランともまったく違うし……。
劉備は劉琦(りゅうき)と諸葛亮を伴い、魯粛と会談する。魯粛は劉備に江東と手を組むよう勧め、これに応じて諸葛亮が江東行きを願い出、劉備の許しを得る。
★この会談の中で諸葛亮が魯粛に、「蒼梧(そうご)の太守(たいしゅ)と主君は旧知の仲。やむを得ぬ場合は蒼梧に参ります」と話していた。
(02)襄陽(じょうよう) 曹操の軍営
曹操が皆を集め、三月(みつき)軍を休ませ、春の到来を待ってから100万の兵をひきいて長江を進み、孫権と劉備を討つことを宣言する。
この場で曹操は蔡瑁(さいぼう)に三月与えると言い、40万の水軍を調練するとともに、8千の軍船を造るよう伝える。そして、5月10日にすべての水軍をひきいて洞庭湖(どうていこ)を出て、赤壁(せきへき)へ行くよう命ずる。
★このあたりの曹操の発言からは、いま何月なのかよくわからず。
また曹操は程昱(ていいく)に、自ら考えた孫権あての檄(げき)を書き取らせる。そしてこの檄文を3千部書き写して竹筒に入れ、長江へ流すよう命ずる。
(03)長江
魯粛と諸葛亮が船中で語り合っていたところ、兵士が曹操の檄文を拾い上げて届ける。
★ここで魯粛が曹操の檄文を読み上げるシーンがあった。檄文は紙に書かれているようだ。濡れても大丈夫な加工を施した紙という設定なのかもしれないが、竹簡か木簡、または帛(はく。絹)に書かれていたことにしたほうがよかったのでは?
(04)江東
魯粛と諸葛亮を乗せた船が到着する。
(05)柴桑(さいそう)
張昭(ちょうしょう)が孫権に、曹操との戦を避け、朝廷に帰順するよう進言する。
★張昭の進言に以下のフレーズがあった。「江東の兵馬は歩兵・水軍合わせても10万に足りず、我ら江東52年の歩みの中で、兵士たちが戦った最も大きな戦は唯一、荊州の劉表との一戦なれど、決着はついておりません……」
「江東52年の歩み」とは何のことだろうか? 孫家が江東を治めてから、まだそれほどの年月は経っていない。ちなみに、後の黄龍(こうりょう)元(229)年に孫権が呉(ご)の帝位に即き、孫晧(そんこう)の天紀(てんき)4(280)年に滅亡するまでが52年になる。もしかすると、このことを言っているのかもしれない。
張昭らが退出すると魯粛は孫権に、曹操が許都(きょと)で編んだ黄金の鳥かご(朝廷を意味している)のたとえ話を持ち出し、降ってはならないと進言する。
その翌日、諸葛亮が孫権配下の重臣たちと舌戦を繰り広げ、次々に論破していく。1人目は張昭、2人目は虞翻(ぐほん)、3人目は顧雍(こよう)、4人目は姓名不詳。ここで黄蓋(こうがい)が現れ、諸葛亮を孫権のところへ案内する。
★1人目の相手に設定された関係かもしれないが、張昭が末席に座っていた。奥のほう(上席)から立ち上がり、諸葛亮を出迎える形にしても問題はなかったと思う。
孫権が諸葛亮と会談。この席で諸葛亮は、魯粛からたびたび注意されていたにもかかわらず、曹操の兵力は100万余りだと述べる。孫権は諸葛亮の無礼な発言を聞き、席を立つ。
★孫権から意見を求められた諸葛亮が、「10年前、董卓(とうたく)は天下を乱し、諸侯が台頭してまいりました……」と話していた。董卓の死は192年のこと。このときは208年だろうから、10年前だと話が合わない。
管理人「かぶらがわ」より
劉備と孫権をまとめて屠(ほふ)ろうとする曹操。いいタイミングで魯粛が来たので、自ら江東へ乗り込む諸葛亮。
舌戦のシーンは誰だかわからない人物も発言していました。多くの登場人物が出てくるシーンでは工夫して、できるだけ姓名の字幕を付けてほしかったです。
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