『三国志 Three Kingdoms』の考察 第73話「曹操薨去(そうそうこうきょ)」

曹操(そうそう)のもとに、孫権(そんけん)から関羽(かんう)の首が届く。曹操は手厚く葬らせたものの、墓に酒を捧げたあと激しい頭痛に襲われる。

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第73話の展開とポイント

(01)揚州(ようしゅう) 建業(けんぎょう)

孫権が陸遜(りくそん)に、亡くなった呂蒙(りょもう)の後任の大都督(だいととく)として誰を充てるべきか意見を聴く。

陸遜は、しばらく大都督と副都督(ふくととく)を置かず、孫権自ら全軍の整備にあたり、戦となったときに大都督を任命するよう勧める。

孫権はこの意見を容れたうえ、郷里に戻って学問に専念したいという陸遜を許す。

(02)益州(えきしゅう) 成都(せいと)

劉備(りゅうび)の前に亡き関羽が現れ、別れを告げる。ほどなく諸葛亮(しょかつりょう)が劉備に荊州(けいしゅう)の陥落を伝える。

劉備はジョウヨウ(襄陽? 上庸?)から来た使者を呼び入れ、関羽・関平(かんぺい)・周倉(しゅうそう)の戦死を知らされたあと倒れてしまう。

(03)許都(きょと)

曹操のもとに、孫権から誕生日の祝いとして関羽の首が届けられる。

曹操は孫権の意図を見抜き、天子(てんし。献帝〈けんてい〉)に上奏して関羽を荊王(けいおう)に追封し、首と香木で作った身体を洛陽(らくよう)の南門の外に手厚く葬るよう命ずる。

また、埋葬の際には文武百官を参列させることを決め、程昱(ていいく)に手配させる。

(04)洛陽の郊外

曹操が文武百官を伴い、関羽の埋葬に立ち会う。

関羽の墓碑には「漢故寿亭侯関羽君之碑」とあった。荊王に追封したとか言っていたのに反映されていない。

曹操は関羽の墓に酒を捧げたあと激しい頭痛に襲われ、急いで城内へ戻る。

(05)洛陽

曹丕(そうひ)が侍医から華佗(かだ)を呼ぶよう勧められ、ボウグン(?)に使者を遣わし連れてくるよう命ずる。

洛陽から200里余り離れているという「ボウグン」がわからなかった。「某郡」という意味ではないと思うが……。

華佗が曹操を診察し、頭痛は風病(ふうびょう)が原因で、病根は脳にあると告げる。

そして麻肺湯(まはいとう)を飲ませ、頭を切開して風涎(ふうぜん)を取り除けば治すことができると言う。

だが曹操は承諾せず、華佗から関羽を治療したことがあると聞くと、かえって彼を捕らえるよう命ずる。

曹操のもとに、孫権から帝位に即くよう勧める書状が届く。程昱も曹操に新しい冠と百官の勧進表を見せ、帝位に即くよう勧める。

しかし曹操は帝位に即くことを否定し、曹丕を呼ぶよう命ずる。

ここで書状が届いたことを曹操に伝えていた程昱が、孫権を「呉侯(ごこう)」と呼んでいた。こうなると、やはり前の第72話(12)で建業の宮殿の入り口に「呉王宮」という額が掛けられていたのが気になる。呉侯の宮殿が「呉王宮」と呼ばれるはずがないので……。

曹操は曹丕に曹沖(そうちゅう)の死の真相を明かすよう迫るが、曹丕は自分の仕業ではないと言い張る。

曹操は曹丕の態度を評価し改めて後事を託したうえ、司馬懿(しばい)を重用するよう伝える。その一方、司馬懿への警戒も怠らないよう注意する。

曹操が重臣を集め、皆で曹丕を補佐するよう命ずる。

さらに曹操は、彰徳府(しょうとくふ)講武(こうぶ)城外に72か所の偽の墓を造るよう命じ、(自分の死によって)寡婦となる妻たちの去就はそれぞれの判断に任せることを告げる。

こうして遺言を伝え終えた曹操は、座ったまま絶命する。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第78回)の訳者注によると、「彰徳府の講武城は金(きん)代以後の地名。実際には鄴城(ぎょうじょう)」という。

(06)鄴 魏王宮(ぎおうきゅう)

曹操の葬儀が営まれる。

ここでナレーションが入っていた。「建安(けんあん)25(220)年正月、曹操は尽きせぬ夢を抱いてこの世を去った。享年66。傑出した政治家、軍事家、文学者。そして何より類いまれなる策略家であった。三国の世の後に訪れる国家再統一の礎を、曹操は労をもって築いた」と。

献帝が曹操の弔問にやってくる。

司馬懿は曹丕に天子(てんし。献帝)と魏王の礼制は対等であると告げ、出迎えを制止。曹丕は司馬懿の意見に従う。

司馬懿が献帝に、魏王を曹丕に継がせるとの曹操の遺言を伝える。やむなく献帝は曹丕の魏王継承を認める。

さらに華歆(かきん)が献帝に、曹操の霊前で叩頭(こうとう)の礼を執るよう迫り、これにも献帝は従わざるを得なかった。

管理人「かぶらがわ」より

希代の実践者であった曹操の死。奸雄(かんゆう)だ何だと言われてはいますが、理屈ではなく実際の行動をもって、乱世を駆け抜けたところに魅力を感じます。

劉備は曹操ほど野心を表に出さないぶん、より狡猾(こうかつ)な一面があると感じますし、孫権は皇帝ではなく、呉王のほうがしっくりくると思います。

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