『三国志 Three Kingdoms』の考察 第78話「劉備、呉を伐つ(りゅうび、ごをうつ)」

劉備(りゅうび)は張飛(ちょうひ)の急死を受け、改めて呉(ご)の孫権(そんけん)を討伐する決意を語り、群臣の反対を押し切って自ら東征に赴く。

秭帰(しき)を攻略し勢いに乗る蜀軍(しょくぐん)は、恐るべき速さで荊州(けいしゅう)へ迫り、呉都の建業(けんぎょう)に動揺が広がる。

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第78話の展開とポイント

(01)蜀漢(しょくかん) 成都(せいと)

張飛の弔問の場で、劉備が秦宓(しんふく)に呉討伐の檄文(げきぶん)の起草を命ずる。しかし秦宓は、先に魏(ぎ)を討伐すべきだと諫言する。

怒った劉備は秦宓の処刑を命ずるが、諸葛亮(しょかつりょう)や趙雲(ちょううん)らが助命を乞うたため、ひとまず投獄にとどめた。そして皆に、自ら呉討伐の檄文をしたためると告げる。

秦宓は字幕による紹介がなかった。

(02)丞相府(じょうしょうふ)

魏延(ぎえん)が諸葛亮に、劉備が李厳(りげん)を尚書(しょうしょ)に、黄権(こうけん)を蜀郡太守(しょくぐんたいしゅ)に、それぞれ任じ、諸葛亮に代えて李厳を重用するとのうわさを伝える。

諸葛亮は魏延を叱責した後、馬謖(ばしょく)に上奏文を書くよう命じ、その中で幾たびも呉の討伐を諫止したことを詫びる。

(03)成都

劉備が大軍をひきいて呉討伐のため出陣。諸葛亮は従軍する馬良(ばりょう)を呼び止め、呉へ入ったら各地で地形や敵情を図面に起こし、夜のうちに成都の自分のもとに届けるよう厳命する。

ここで先の第72話(08)で消息不明になっていた馬良が再登場。

(04)建業

程普(ていふ)が孫権に、劉備が水陸約70万の大軍をひきい、8月8日に成都を発ったようだと報告。孫権は皆を集めて対応を話し合う。

ここで諸葛瑾(しょかつきん)が、万策をもって劉備軍を足止めし、情勢を見守るよう進言。劉備が恨んでいる范疆(はんきょう)と張達(ちょうたつ)を差し出したうえで和睦を求め、休戦するよう献策。

だが孫権は、戦わずしての和睦など屈辱であり、投降するのと変わらないと応ずる。

ここで程普が、徹底抗戦して劉備に苦戦を強いたうえ、戦局がこう着し劉備の兵糧が尽きたころを見計らい、和睦の使者を送ればよいと進言。孫権も同意する。

孫権は名乗りを上げた高齢の程普に代え、孫桓(そんかん)を鎮西左都督(ちんぜいさととく)、朱然(しゅぜん)を鎮西右都督(ちんぜいゆうととく)にそれぞれ任じ、精鋭5万を預ける。

孫桓と朱然は、孫権から秭帰をひと月だけ守り通すよう命ぜられる。これは劉備軍が疲弊するのを待って、和睦を持ちかけるという計画に沿ったものだった。

(05)秭帰 劉備の軍営

程秉(ていへい)が劉備を訪ね、范疆と張達を差し出して和睦を求める。しかし劉備は范疆と張達に加え、程秉も処刑するよう命ずる。馬良が使者を斬らないよう諫めたものの、劉備は聞き入れなかった。

劉備が張苞(ちょうほう)と関興(かんこう)に、兵をひきいて秭帰城へ向かい、3日のうちに陥すよう命ずる。

関興は字幕による紹介がなかった。

(06)秭帰城

劉備軍が三時(さんとき)で秭帰城を攻略。張苞が一番乗りを果たし、孫桓は逃走。

ほどなく劉備も入城し手柄をたたえ、配下の兵士たちへの褒美として肉と酒を与える。校尉(こうい)以上の者にはさらに褒美を遣わすとも。

ここで劉備が皆に、「わずか2日で国境(くにざかい)から200里も進んだ。誠に順調である」と言っていた。

また馬良が劉備に、「呉軍は秭帰を取られ、コウジョウ(?)・リョタイ(?)も長くは持ちませぬ。この分なら冬が訪れるまでに荊州に入れましょう」と言っていた。「コウジョウ」と「リョタイ」がわからなかった。地名のようだが……。

劉備はコウジョウとリョタイの攻略を関興に任せるが、すでに彼は兵をひきいて出発していた。

ここでは劉備も馬良も笑っていたが、明らかに関興の軍令違反では?

劉備は城内を見て回り、ウテイ(禹帝?)が祭られた祠(ほこら)の門を焼こうとしていた部将をとがめる。

劉備は馬良に命じ、これより先は攻略した城をすべて蜀の地と見なすとし、寺院や家屋への無断立ち入りを禁ずる。

そしてその地の民、牛馬、田畑、租税のすべてを記録させたうえ、政令も改め、蜀の法に則った新法を発布させる。

(07)建業

孫権のもとに、孫桓の敗走と秭帰落城の知らせが届く。孫権は、わずか三時の激戦で城を失い1万近い兵を戦死させたとして、孫桓と朱然のふがいなさに激怒する。

なお、この場に孫桓と朱然が逃げ戻っているわけではない。

諸葛瑾が孫権に、秭帰落城の知らせを受け、国内に動揺が広がっていることを伝える。

ここで諸葛瑾が孫権に、「江東(こうとう)の建業やカイコウ(?)など、他の国境(くにざかい)の街にも混乱が生じています……」と言っていた。「カイコウ」というのはどこ?

前線から戦況報告が届き、孫権は皆の前で読み上げさせる。

蜀軍の先鋒の関興が1万の兵でコウジョウを陥し、守将は自害。兵もほぼ全滅。蜀軍は軍令により、奪った城内での略奪や殺りくを厳重に禁止しており、役所には新任の役人が遣わされ、田畑や民、牛馬、租税を調べたうえ、呉の政令を廃止したようだというもの。

呉国太(ごこくたい)が孫小妹(そんしょうめい)を呼び、江東の民のため劉備のもとへ戻るよう、孫権とともに頼む。

ここで孫小妹が呉国太に、「(劉備は)今年で齢62のはず。さぞ年老いたことでしょう」と言っていた。

また孫小妹が呉国太と孫権に、「(劉備は)5年前、自分から捨てた人です。いまさら合わせる顔などありませぬ」とも言っていた。

孫小妹が呉国太と孫権の頼みを聞き入れ、劉備のもとへ戻ることを承諾する。

(08)劉備の軍営

諸葛瑾が劉備を訪ね、孫権の書簡を差し出す。この書簡の中で孫権は、妹(孫小妹)と荊州3郡を返すという条件を提示して和睦を求める。

だが劉備は申し入れを拒否し、江東の百官を従えての投降を要求する。

(09)建業

呉国太や孫小妹のもとにも、劉備が和睦を拒んだとの知らせが届く。

管理人「かぶらがわ」より

関羽(かんう)と張飛の仇(あだ)討ちに燃え、東征を強行する劉備。帝位に即いたばかりなのに、この判断はどうだったのでしょう? 荊州を取り返すというならまだしも、建業まで視野に入れるのは無理があります。

それだけ3人の結びつきが強かったのだと言えば、確かに美談かもしれませんけど……。蜀の民にはどのように映ったのでしょうね。

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