吉川『三国志』の考察 第086話「一書十万兵(いっしょじゅうまんぺい)」

関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)が独断で曹操(そうそう)配下の車冑(しゃちゅう)を殺害したため、やむなく劉備(りゅうび)は徐州(じょしゅう)へ入城する。

曹操との対立が決定的になったと憂える劉備に、陳登(ちんとう)は、ある人物に袁紹(えんしょう)あての手紙を書いてもらうよう勧めた。

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第086話の展開とポイント

(01)徐州

関羽と張飛らにより曹操配下の車冑が殺されると、やむなく劉備は徐州城へ入る。

しかし、事の成り行きや四囲の情勢は、従来のような曖昧な態度や卑屈を許さなくなっていた。

劉備が曹操の反応を憂えていると、陳登はご心配は無用だと言い、徐州の郊外に住む高士の鄭玄(ていげん)のことを話しだす。

鄭玄と河北(かほく)の袁紹とは、ともに宮中の顕官だった関係から三代の通家(つうか)なのだという。

陳登は、鄭玄に会って袁紹への手紙を書いてもらうよう勧める。そこで劉備は陳登を案内に鄭玄の住まいを訪ね、袁紹あての一書を書いてもらう。

そしてこの書簡を孫乾(そんけん)に託し、袁紹のもとへ遣わした。

(02)河北(鄴城〈ぎょうじょう〉?)

袁紹に謁見を許された孫乾は、まず劉備の親書を奉呈し、曹操討伐の決起を促す。初め袁紹は一笑して相手にしなかったが、孫乾の熱弁にいくらか心を動かされる。

一応、評議のうえ返答に及ぶと告げ、数日は駅館で休息するよう言う。孫乾は、別に鄭玄から特に託されたという書簡も奉呈して退がる。

後で鄭玄の手紙を見た袁紹は大きく心を動かされた。翌日、台閣の講堂に諸将を集め、曹操討伐の出兵の可否を評議する。

田豊(でんほう)は出兵に反対。まずは国内の憂いを癒やし、辺境の兵馬を強め、河川には船を造らせ、武具や糧草を積み蓄えて、おもむろに好機を待つべきだと主張。

逆に審配(しんぱい)は出兵に賛成し、今こそ中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)に出る絶好の機会であると主張した。

すると沮授(そじゅ)が立ち上がり、曹操が天子(てんし。献帝〈けんてい〉)の名をもって法令を発していることに触れ、審配の説は大きな賭博を打つのと変わらない暴挙だと評する。

続いて日ごろから沮授と仲が悪い郭図(かくと)が立ち上がり、鄭玄さえ劉備を助け、ともに曹操を討つべきだと言ってきているとして、即刻出兵の命を下すよう求めた。

袁紹は出兵を決め10万の大軍を編制。審配と逢紀(ほうき)のふたりを総大将として、田豊・荀諶(じゅんじん)・許攸(きょゆう)を参軍(さんぐん)の謀士に、顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)の二雄を先鋒の両翼に、それぞれ定める。

総大将がふたりいるのは引っかかるが……。

また『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第22回)では、参謀として田豊と許攸の名は見えるが荀諶の名は見えない。

騎兵2万、歩兵8万。そのほかおびただしい輜重(しちょう)や機械化兵団まで備わっていた。こうして袁紹軍の準備が整ったころ、劉備の使者の孫乾は急いで徐州へ帰っていく。その懐には、袁紹から援助の承諾を得た返簡があった。

井波『三国志演義(2)』(第22回)では騎兵15万と歩兵15万、都合30万の精鋭を繰り出したとある。また、このとき袁紹が郭図の進言を容れ、書記(しょき)の陳琳(ちんりん)に命じて檄文(げきぶん)を作らせたともあった。だが、吉川『三国志』では檄文の件に触れていない。

管理人「かぶらがわ」より

先に袁術(えんじゅつ)を滅亡に追いやったため、本来なら袁紹の援助など受けられるはずがなかった劉備。その不可能を、袁紹と懇意にしていた鄭玄の一書が可能にしました。

ですが鄭玄が劉備のために手紙を書いたということは、正史『三国志』には見えないですね。

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